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寒天厳しい中にこそ、楽園があると聞いた。
それは夏の盛り、木々も青く、落とす影は真っ黒に見えるほどの猛暑日であった。
「キミは知ってるかい。まるで春の日向のように心地よく包み込まれるのだそうだ」
網戸越しに氏は唸るように言った。
ぬるい風が一方的に吹き出しているのは、この場所にセンプウキがあるからだ。僕は氏の横顔を見つめていたが、彼の語るものについては何一つ知るものはなかった。
彼が語るそれは、名を「コタツ」と言う。
あらゆる生き物を凍てつく寒さに眠らせてしまう冬にあり、コタツはその裡に暖かさを抱き近づくものすべてを温もりの中へ眠らせてしまうのだそうだ。
「知らないな。そんな夢のようなものがあるのかい」
「わたしも一度だけしか見たことがないのだけど。あれは不思議な光景だった…
我々一族も人も、あの空間に引き寄せられるように集まってくるんだ」
神妙な面持ちで彼は言う。暖かさがあれば確かに近寄らぬ訳にはいくまい。その場に自分がいてもきっと同じように吸い寄せられただろう。
「しかし、今はちょっと想像できないな」
とにかく息を吐いても吸っても熱いのだ。この空気があと半年もすればすっかり入れ替わってしまうのだから信じられないものだ。
そんな信じられない世界の中に、コタツはあるのだと、やはり氏は慎重に辺りを伺うように三角の耳をきょときょとと動かし、頷くのだった。
「あ、ねこちゃん」
遠くない距離から甲高い声が響いた。網戸越しの氏はアンテナを巡らせていた耳をピッとそちらに向けるやいなや、「ではまた」と一言、颯爽とグレーの身を翻して走り去って行った。
やがて時間とともに空の色も風の匂いもまるごと入れ替わり、信じられない世界がやってきた。
「さすがに寒いなあ」
僕を膝の上に乗せ、更にその上から毛布を一枚。そうしてみてもぽつりとこの土台たる人間は低く呟く。
「お前を乗せていても今年は寒そうだ」
毛布を捲り僕を見下ろしながら人間は笑った。僕は寒いので早く毛布を戻せと人間を見上げしっぽを叩く。
「コタツ買ってくるか」
不意に聞こえたその響きに、僕はピンと耳を立てた。コタツ。あの彼が言っていたものの名前だ。あまりに彼が重々しく言うものだから、滅多にお目に掛からないようなものかと思ったのだが、人間の言いっぷりは案外に軽い。
人間はそれきり黙ってしまったのだが、果たしてそれは間を置かずにやってきた。
いつも人間が腕を乗せている台に毛布を掛けた代物だ。確かに暖かそうではあるが……
僕が興味津々に周りをうろついていると、人間はニコニコと笑って毛布を捲る。
そこからほわりと浮かんだ暖気。
なるほど! これは間違いない!
僕は喜び勇んで毛布の内側に飛び込み─── びびった。
目の前にうり坊がいる。
「おや、これは珍しい方」
僕より一回り小さいうり坊は、小さな鼻をふむふむと動かした。
「待て待て、お前は誰だ、いつからここにいる、人間が持ってきたのか」
「いえいえ、ついさきほど参りましたよ、珍しい方。
開かれたので、参りましたよ。
小さな火燵ですので、あっしが参りましたよ。摩利支天のお使いです」
うり坊の口上に僕は驚き、そして納得した。ああ、摩利支天の。
なるほどなるほど、おそらくかつては火を入れていたのか。
「珍しい方、お気をつけなすって。
温かなものがいつも温かな限りではなく、それはこのものの一局面であること」
うり坊は恭しく頭をかしづいた。
道理の話し、この世の定理。耳タコ要項である。
僕は身を包むまったりとした暖気にぐるりと頭を巡らせた。
「僕に言ってもな。そういう話は人間に」
と、うり坊を振り向くと、すでに小さな影は消えている。低姿勢な割には面倒事を押し付けていったようだ。
言いたいことは分かる。摩利支天の眷属ならば、火のもとに気をつけろ、だ。
のそりと人間の足が布団の中に入ってきた。僕を蹴らないように慎重に差し込んだのだろう。
互恵関係というには些かこの生き物は僕らのような姿に甘い。
火事くらいは教えてやろう。
僕は人間の足を枕にくるりと丸まった。
神様のお膝元にあるならば、
確かにここは、楽園そのものなのだろう。
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