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緋いキャンバスの海の中で
その男と初めて対面した時、私はどんな感情を抱いていただろう。
畏怖。
嫌悪。
憎悪。
憐憫。
侮蔑。
私自身の『本来の仕事』とはかけ離れた負の感情の数々が、言葉にできない刃となって胸を抉ってきたことだけは鮮明に覚えている。
「緋歪くんだね」
男――緋歪は、真っ白い牢獄の中にいた。
どんな汚れも、異常もすぐに見つけられるような清潔感溢れる牢獄。
その中で、緋歪は常に人を小馬鹿にしたような微笑を浮かべていたことが、強く印象に残っている。
「初めまして、緋歪くん。今日からキミの専任となるカウンセラー、藍蒼だ」
宜しく、と当たり障りのない社交辞令の挨拶を交わし、一時的にでも緋歪との距離感を図ろうとした。けれど、
「………………」
返事はなかった。
一瞬だけ、こちらに視線を向けた。けれどそれもすぐに離れていく。
そして緋歪は、誰に言うでもなくまるで自分自身に話しかけるようにブツブツと言葉を紡ぎ出しながら、それでも手だけは動かし続けていた。
「そう、か。前のセンセーは、俺のこと、嫌いになったのかぁ……」
ザリザリ、ザリザリ――。
緋歪の前に置かれたキャンバス。
まるで砂地を引っ掻くかのように、荒い紙面の上を、緋歪の指が躍る。
「そうかぁ、なら、仕方ないよなぁ……。どうしようもない。これはあの色じゃないと、あそこの色じゃないと似合わないのに……」
緋歪の白くて長い指が、キャンバスの表面をザリザリとなぞっている音だけが空気に混ざって聞こえてきた。そして、わずかばかりの沈黙のあと、
「残念だ。もうちょっとで――せっかく〝仕上げ〟られたのに」
緋歪は無惨にも、目の前でキャンバスを破り捨てた。
「……っ」
緋歪の行動に、目を見張る。
あまりにも突然の行動に止める暇もなく、緋歪はキャンバスを破壊し尽くした後、
「宜しく。センセー」
徐に振り返ったその男は、何事もなかったかのように、妖しい微笑をその薄い口許に浮かべた。
緋歪は、殺人鬼だ。
今は、その異常性はナリを潜めている。
けれども、猟奇的な殺人鬼として一時期脚光を浴びた異常者だ。
血を愛し、貴び、惚れ込み、そしてなにより『自分の作品』を追い求めている――それが緋歪という名の殺人鬼の在り方だった。
被害者の『血』を用いて、壁や地面、樹木、果てや人体そのものなど――材質を問うことなく『血』だけで描きあげたその『芸術作品』は裏の一部の蒐集家の間で、高値で取引されていた程だという。
「センセー、センセー」
殺人鬼に関する情報を、思い起こしていた時だ。
不意に、緋歪の声が思考を切り裂いた。
「こっちきて、前座って」
「……緋歪くん。私はキミのカウンセラーなんだ。だからキミの絵のモチーフになることは……」
あまりにも呑気な、というよりも予想外の要求に内心困り果てながら、慎重に言葉を選ぼうとした刹那、
「座れよ」
空気が、凍った。
先ほどまでの、間延びした声とは違う。
明確な殺意を宿した〝命令〟に、私は小さく息を呑んだ。
危険物になるような物は持ち込めない。勿論それは、緋歪も同じ。
抵抗も暴力も傷害も殺人さえも行うことなど不可能な、四方をカメラで監視された空間。
だが、それでも目の前の圧倒的な捕食者を前にして迂闊なことはできない……そう思った。
「……ああ、わかったよ」
短くそれだけ答え、私は緋歪の前に座る。
それに満足したのか。緋歪は新しいキャンバスを取り出すと、絵の具も何もついてない指をまるで絵を描くように滑らかに動かしていく。
「せっかく、生きていたのに。活きていたのに。息を、していたのに」
勿体ない、と緋歪は呟く。
心赴くまま、言葉を口にしているようだった。
「……。さっき破り捨てたのでは、駄目なのかい」
「駄目、なんてモノじゃない。あれはもう〝死んで〟る。だから、いらない」
「死んで、いる?」
言っている意味が、わからなかった。そして、そんな疑問が顔に出ていたのだろう。
私のその反応に、初めて呆れたような表情を緋歪は浮かべた。
「…………同じ色なんてないんだ」
ポツリと、緋歪の薄い唇から言葉が落ちる。
「再現不可能な原色なんだ。色も、味も、匂いも、触感も、酸化具合も、何もかも……一度として同じモノなんて存在しない。同じモノにはなり得ない」
ドロリとした粘性のある聲が、鼓膜を犯す。
「どの部位を使うか、どう裂くか、抉るか、刻むか、どのくらいの時間で処理をして、酸化して黒ずんでいくのか……全部考えて描いてたんだ」
「…………!」
それは、数々の『芸術品』を生み出したと同時に――数多の人間を、殺してきたに他ならない。けれど緋歪のその言葉からは、罪の意識、後悔や反省など無縁のようだ。
殺人を犯すことよりも、自分の『作品』に対する執着心。それだけが、緋歪の言葉の端々から感じ取ることができた。
「だからあれは、前のセンセーのもの。これから描くのは今のセンセーだけのもの」
淡々とした口調で、どこか芯の強さを宿した言葉で、悍ましい言葉を吐き出していく。
「だからさ、センセー」
緋歪は言った。
「センセーの仕事に付き合うからさぁ、センセーも付き合ってよ」
◆ ◆ ◆
緋歪のカウンセリングを任されてから一ヶ月ほど経った頃――。
「そいえばさ、センセー。センセーの眼って、なんでそんな特別なの?」
「は……?」
あまりに突然すぎるその問いに、思わず間の抜けた声が出てしまった。
「特別……?」
そんなこと、今まで言われたことがなかった。
特に目立った形などしていない。ましてやカラーコンタクトもだ。一般的なそれと変わらない――至って普通の、当たり障りのない詰まらない人間だと自覚している。
なのに、緋歪は『特別』だと口にする。
そんな緋歪の真意が、読み取れなかった。
「特に可笑しいとは思っていないけれど……そんなに変かい?」
「ううん。可笑しくも変でもない。〝特別〟だって言ってるんだよ」
「…………」
どうせまた、いつもの気まぐれだろうと思った。
ここ一ヶ月、ほぼ毎日と言っていいほど、緋歪と長い時間を過ごしてきた。
緋歪の感情、思考、思想。
善悪の区別や、価値観。
数々の犯行の動機。
『作品』への執着心。
それを少しずつでも読み解こうと、色々な言葉を交わしては記録を録っていた。
けれど、そのどれもが日によって言葉が変化し、一貫性がない。
その日の気分で、言葉を吐き出しているようだった。
だから、緋歪の突然の言葉が――意味あるモノだと、その時はまだ気づけていなかった。
「一ヶ月、ずっと考えてたんだ。センセーを初めて見た時から」
「うん?」
「毎日毎日毎日毎日……そうなんだって気づいてから、どうしようか考えてた」
それは無邪気な子供ように。新しく与えられた玩具を大切にするような反応だった。
「考えてた? 何を? 絵の構想をかい?」
「構想なんて、必要ない。描き出せば止まらなくなるまでだ」
「…………」
「決められたんだよ、やっと」
「じゃあ、何が決まったんだい?」
「使う色を、決めたんだ」
埒が明かない。
歯切れの悪い言葉の数々に、次第に心の中に不安が募る。
何が言いたい。
何をどうしたい。
『使う色を決めた』と緋歪は口にした。
それは今までのカウンセリングの中で、一度も出てこなかった単語だ。
「…………!」
急に、嫌な予感がした。
幾人もの犯罪者のプロファイリングから〝対応可能な案件〟だと判断した自分が、浅はかだった。
カウンセリングどころじゃない。
緋歪はずっと、白磁のキャンバスの前でイメージしていたのだ。
自分の次の〝作品〟を――!
「…緋………!」
「だから、さ……」
緋歪の指がこちらに伸びてきた直後――ぐちゅりと、眼窩を抉る湿った音。
「センセーの〝眼の血〟で描かせて」
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