興行師クラウン

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 降りしきる雨の中を、雄一はあてどもなく彷徨っていた。  彼の見て呉れを端的に表すなら“生ける屍”という言葉が適切だろう。  体中の肉という肉は削げ落ち、とりわけ頬はげっそりとこけて40代とは思えないほど老け込んでいる。  髪と髭はぼうぼうに伸び、黒ずんだシャツの袖から伸びる腕は力なく垂れ下がっていた。  ひた、ひた、ひた――  雄一はうつむき加減でゆっくりと歩き続ける。傷んだ長い前髪の隙間から覗く、奈落のような深い闇を映す瞳。それは、雄一の背負ってきたあらゆる負の感情を煮詰めたかのような禍々しさすら感じさせる。  雄一がバス停の脇を通りかかったとき、そこにいた三人の女子学生が視線を一斉に彼へと向ける。と同時に彼女らは口々に何かを囁き始めた。 ――臭い、汚い、気持ちが悪い。  雨音のせいではっきりとは聞き取れないが、そういった罵声が自分に浴びせられていることを雄一はよくわかっていた。    これまで幾度となく向けられてきた棘のような悪意。いつしか雄一はそれを人一倍鋭敏に感じ取れるようになっていたのだ。 (ふざけるな)    雄一はポケットをまさぐり、忍ばせていた果物ナイフ――その気になればいつでも死ねるようにと携帯していたもの――を掴む。    どうせ失うものは何もない。ならばひとつ、彼女らを殺してこの忌むべき社会に一矢報いてみるのもいいかもしれない。  バス停を百メートルほど過ぎたところで立ち止まり、後ろに一瞥(いちべつ)を投げる雄一。  果物ナイフの柄を握る力が強くなり、手汗がぶわっと滲みだす。震える手でカバーを外すと、ぬらぬらと煌めく刃が露わになり、そこに映った哀れな自分の顔が目に飛び込んできた。 「……ちくしょうっ!」  雄一は果物ナイフを用水路へ力いっぱい投げ捨てると、朽ちかけた肉体に鞭を打って脇目も振れずに走り出す。水たまりに勢いよく突っ込み、ボロ靴の底から浸入した雨水がじわりと足裏を濡らしていく。 「はぁ、はぁ……」  雨水をたっぷりと吸ってすっかり重たくなっていた服は、じわじわと雄一の体力を奪っていく。  息が切れ始め、走る速さが次第に落ち、ついに雄一は足を止めた。気がつくと、そこは人けのない住宅街だった。  雨はいっそう激しくなり、辺りは少しずつ夜の闇に飲まれ始めている。その暗がりの中、前方にぼうっと浮かび上がった人影に気がつき、雄一は眉を震わせた。  距離が遠いため、その者の顔は判然としない。が、どうやら雄一の方へ向かってきているようだ。歩を進めるうちに二人は街灯の真下で交わり、互いの顔がはっきり見えるまでに距離が縮まった。 「はじめまして。私の名はクラウンド・クラウン。劇団の座長をやっている者です」  その者は不意に雄一の前で立ち止まり、名乗った。芝居がかった口調が特徴的な、少し声の高い男だった。燕尾服にシルクハットという、住宅街をうろつくには奇異とも言える恰好をしている。 (なんだ、こいつは……)  彼は線の細い長身の青年で、片眼鏡(モノクル)越しの垂れ目が訝しそうにする雄一を愉快そうに捉えている。 「あなたのような素晴らしいお方に出会えるとは、なんという僥倖(ぎょうこう)。クラウンド・クラウン、この巡り合わせに深く感謝いたします」 「貴様、俺をからかってやがるのか?」  苛立ちを露わに雄一がクラウンに詰め寄る。果物ナイフを捨てていなかったらこの男を刺そうとしていたかもしれない。 「落ち着いてください」    クラウンの胸ぐらを掴まんとする直前、雄一の手は虚空にぶつかって弾かれた。確かにそこには何もないのだが、不可視の障壁のようなものが雄一の伸ばした手を阻んだのだ。その奇妙な事実が雄一に冷静さを取り戻させた。 「あなたは一流の役者へと昇り詰める可能性を秘めています。どうです? 私とともに、今まであなたを見下してきた者たちを見返してやろうではありませんか」 「貴様の目は節穴か? 俺をよく見てみろ」  雄一は鼻で笑うと、自分の姿をクラウンに見せつけるように両手を大きく広げた。 「そのようなお姿だからこそ声をかけたのですよ。あなたは極上の原石です」  生きづらさに苦しみ、人々から蔑まれ、疎まれて生きてきた人間の成れの果ての姿。そのみすぼらしい様を見て自分の劇団にスカウトしようなど、どこの物好き団長がやることなのか。クラウンに対する警戒心よりも彼に対する興味が勝り、雄一は背中を反らせて哄笑した。 「面白い。その話、乗ってやろうじゃねえか」 「そうこなくては。では早速ですが、これよりあなたを我が劇団の一員として迎え入れることといたします」  クラウンはシルクハットを目深にかぶり直し、パチンと指を鳴らす。すると、薄闇を切り裂くようにクラウンの指先から虹色の光線が発射され、雄一の胸部へと命中する。 「ぐあっ!」  鋭い痛みを感じた雄一はたまらずアスファルトの上に倒れ込んでしまい、奇声を発しながら泥水の上をのたうちまわった。 「イダイ……グルジイィィィッ! ギザマ、ナニヲシヤガッタアァ!」 「苦しいのは今だけです。すぐ楽になりますよ」  悶える雄一をあざ笑うかのように落ち着き払っているクラウン。体が張り裂けそうな痛みに耐えながら、雄一は力を振り絞って必死に首をもたげる。 「ギ、ザ、マ……」  雄一の視界に映るクラウンの顔が水面のように揺らいでいる。意識を失いかけているせいだ。耳の調子もおかしい。まるで水中にいるかのように周囲の音が不鮮明に聞こえる。  顔からどっと噴き出た脂汗が雨水と混じり合い、涙のように雄一の頬を伝っていく。 「ウオアアアアアアッ!!」  住宅街の静寂を破り、断末魔のような雄一の叫びが轟き渡る。  それはある意味で“雄一”の死だったのだろう。  彼の肉体は一瞬のうちに巨大化。衣服は弾け飛び、皮膚はシミが広がるように全体が灰色に染まる。次第に人間としてのシルエットは崩れ、二足歩行の恐竜じみた姿へと変貌していく。 「グオオオオ……」  雄一“だったもの”は洞窟のような大口から雷鳴に似た唸り声を漏らす。  今や彼は全長五十メートルにも達する巨大生物と化していた。 「怪獣だ!」という一人の通行人の叫びを皮切りに、混乱と興奮が周囲へと波及していく。 「それが生まれ変わったあなたの姿。新たな名前は……ディメーザ!」  刹那、雄一――ディメーザの口腔から放たれた一条の光が闇の下りた空を深紅に染め上げる。  (ゴウ)――耳をつんざくような爆音が響いたのはその直後だった。  ディメーザの放った熱線は一キロばかり離れた駅舎を直撃し、爆発、炎上。闇の中に煌々と炎の花を咲かせた。 「虐げられた男の復讐劇が今、始まりました」  混沌と混乱に狂う群衆の中、ただ一人クラウンだけが悠然と笑っていた。      
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