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それは焼きそばパンではなく
すでに授業が始まっていたのか、気付くと生徒の姿はどこにもなく代わりにただひとり見覚えのない女が立っていた。
制服姿ではない。濃紺のワイシャツに青白赤のトリコロールのネクタイ。ワイシャツと同じ色のタイトスカートに白衣を纏っている。理系教師か保険医だろうか。
オールバックの長く艶のない黒髪に度を越した白い肌、深紅の瞳を見るに色素が薄いのだろう。ならこの髪は染めているのか?
そんな他人のプライベートに立ち入った不躾な視線を向けていると、彼女は陳列棚をざっと見回して呟く。
「焼きそばパンは無いな」
お前もか。お前も焼きそばパンなのか。
「焼きそばパンは人気商品なんですよ」
ウンザリした気分でため息混じりに言った俺の言葉に、女が切長の目を細めた。大きな口が口角を上げ、艶然と笑む。血のように赤い舌がちらりと覗いた。
「くく、ようやっと、口をきいたのう」
口をきいた? なにを言ってるんだこの女は。女は不可解を顔に出した俺にはまったく構うことなく自分のあごに指を当てて首を傾げる。
「しかし、ふむ……まだ時間がかかるか。まだるっこしい小娘どもめ……というかあやつら完全に目的を忘れておるではないか」
舌打ちすると白衣のポケットに手を突っ込み、そこからりんごを取り出した。
りんごだ。切ってもない丸のまま生のやつだ。白衣のポケットになら入る大きさだが、だからって入れて持ち歩くか?
「これはりんごといってのう、バラ科リンゴ属の樹木の果実じゃ。知っておるか?」
名前と果実ってことくらいはそりゃ知ってるがバラ科とかは知らんな。っていうかそんなこと聞いてねえよ。なんでりんごの講釈始めたんだよ。
「そしてある伝承では知恵の実とも呼ばれておる。伝承に寄ればこの実を口にしたものは“知恵”を身につけ、その代償として」
女はりんごひと口齧ると咀嚼してにたりと嗤った。
「ひとは“死”の概念を得る」
そういってりんごを投げて寄越した。反射的に両手を差し出して受け取ってしまう。
その一瞬で女はカウンターに身を乗り上げていた。俺の耳を掴んで乱暴にひっぱり、目の前に引きずり出された俺にくちびるを重ねる。
冷たい、おおよそ体温を感じない冷たさのくちびる。女は強引に舌を挿し入れさっき咀嚼して噛み砕いたりんごであろうものを無理やり流し込む。
何故か抵抗できなかった。一瞬の出来事で頭が回らなかったのは確かだが、それにしても一切抵抗出来ないなんてあるか?
無理やり飲まされたりんごに咽て咳き込みながら女に視線を向けると、すでにそこには誰もいない。
ここにいるのは俺だけだ。
ただ冷たいくちびるの感触と、無理やり飲まされたりんごの甘みだけが残っていた。
水曜日の出来事だった。
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