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俺にはそれよりも気になっていることがあった。
昨日現れた理系教師だか保険医だかわからない女。
無理やり食わされたりんごという名の“知恵の実”。それを口にしたものは知恵を身につけるという。
そして俺はその伝承通り“知恵”を身につけた。いや、どうだろうか。しかしおそらくこれがあの女の言った“知恵”なのだろう。
昨日まであれほど個性的に見えていた生徒たちが、誰も彼もぎこちない人形のように見えた。
何人かは名前を知っていたはずなのに、知っていると思っていたのに、考えてみれば誰ひとり名前を思い出せない。それも正確ではなく、たぶん知らないがただしい。
売店に現れた生徒の中で人間らしく見えたのはおさげ眼鏡と金麦しかいない。
そしてなにより、俺は今日まったく声を発していない。
『ようやっと、口をきいたな』
女の言葉が思い返される。おそらく昨日はあのときまで、俺はここで一度も口をきいたことがなかったのだろう。もしかしたら、もっと前からかも知れない。
俺の頭がおかしいのか? 幾度となく自問した。違う、そうじゃない。そうなのだが、それだけじゃない。同じくらい世界もおかしいのだ。
俺は今日一言も発していない。けれどもまるで俺と話したかのように応対する生徒たち。それどころか気を抜くと俺自身“話した”ような気になってしまう。
いったいどういうことなんだ? あの女は、全てを知っているのだろうか。
授業が始まったのだろうか、いつのまにか生徒たちは誰も居なくなっていた。
タイミング的にあの女が来るのではないかと思い周囲に意識を向けるが、誰ひとりとして売店へやってくる気配はない。
それが仕事だから当然ではあるのだが、こうやって誰も来ない午後の売店でひとり店番をしていると余計なことばかり考えてしまう。
俺はりんごによって“知恵”を身につけたのか。それで世界の異常に気付いたのか。だとしたらあの女はこうも言っていた。
『ひとは“死”の概念を得る』
ひとは生きていれば死ぬに決まっている。そんなことは誰だって知っているはずだし、俺だって知っているはずだ。はずなのだ。
ならば、俺が得る“死”の概念とはなんだ?
ただ命を失うというだけの意味ではないような気がする。逆に言葉通りの意味と取るのであれば、まず俺が不死でなければ話が合わない。
なにひとつわからない。
もしかすると、世界にはなんの異常もなくて、世界をまともに認識出来ないほど俺の頭がおかしいだけかもしれないのだ。
考えてみればそっちのほうがよほど納得がいく。
ならあの女はなんだったんだ。幻覚でもみたのだろうか。
答えは出ないまま日は暮れていく。
木曜日の出来事だった。
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