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月曜日
静かな冬の夜だった。
幼き日の俺は田舎の平屋の縁側で、祖母の膝に座りながら美しい星空を眺めていた。
――くうちゃん、見てごらん。
空を指差しながら祖母が言った。
――あれが鼓星。オリオン座だよ。
ベテルギウス、リゲル、アルタニク。その連なりを、二十八歳となった俺も今、都会の片隅で見上げている。
他の星々を圧倒するその強い輝きは、仕事で疲れ果てた俺の眼には少し眩しかった。
人の持つ“運”が有限であるのなら、俺はそれを就職活動で使い果たしたらしかった。就職氷河期と呼ばれた時代に、中堅の国立大学工学部四年生だった俺が第一志望の大手製菓会社の内定をもぎとれたのは驚天動地の大事件だった。我が久瀬家は大いに沸き、父などは「しっかりお勤めを果たすんだぞ」と武家方がいうようなエールを贈ってくれた。
それが六年前のこと。しかし喜びも束の間。残業が多く不夜城と称される商品開発部に配属されてからというもの、何をやってもうまくいかない日が続いた。入社二年目まではそれでも幾らか楽しかったが、だんだんと任される仕事量が増え、怒鳴られることが増え、胃薬を飲む頻度が増えるにつれて俺はやさぐれた。今年に入り、三歳年上の女が率いる開発チームメンバーとなってからは特に酷く、今日だって「なにこの調査報告書。中身がスカスカ。アンケート取り直して」と、一週間分の頑張りをたった一言で切り捨てられ、トイレですすり泣いた。
深夜一時。仕事にとりあえずの区切りをつけてようやく帰途についた俺は、ブロック塀を横目に見ながら誰もいない路を歩いていた。三メートル間隔で佇立している電燈が、ぼうと辺りを照らし出している。ふいに、木枯らしが顔を吹き付けてきてくしゃみが出た。ついでに鼻水も出た。やれやれと溜息をつきながらスラックスの尻ポケットに手を入れると、そこにあるはずのポケットティッシュがなかった。最寄りの駅前で同じように鼻をかんだ時に落としてしまったのか。
「はぁ……全く、ついてない」
「ツイテナイ?」
突如、背後から声がして、俺は三十センチくらい飛び上がった。
振り返ると、そこには見知らぬアンドロイドがいた。全長百十センチ。真っ白でつるりとした丸っこいボディ。手はクリオネのような三角形をしていて、何か四角いものを持っている。
「オトシモノ、デス」
クリオネはそう言って、使いかけのポケットティッシュを差し出してきた。どうやら俺が落としたのを拾ってくれたらしい。
(……ん?と言うことはこいつ、駅からずっと俺のあとをつけていたのか?)
音もなく。
「オトシモノ、デス」
くりくりとした無機質な眼が、じっとこちらを見つめている。
俺はなんだか怖くなって、ひったくるようにしてポケットティッシュを受け取ると、足早にその場を立ち去った。
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