体育祭

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あと少しの“動”でいけるという正也の言葉に違いはなく、トイレに着いた瞬間正也は蹲って吐き始めた。相当人酔いしたのだろう。 吐くのを手伝ってやろうかとも思ったが正也が嫌がったのと俺も嫌だったので外に出て待機。 「……疲れた……」 とん、とトイレの外壁に体を預ける。走って運んできたが故に暑くなった体を休ませて、日陰になる裏側で涼みつつ座り込んだ。 正也は、本当にできれば顔出しをやめた方がいいくらいに人に弱い。踏み込んで聞きはしないけれど、きっと彼自身人にトラウマがあるからだろう。 正也の目は珍しい。 人間は、異質なものを見ると迫害したがる生き物だから。 珍しく考え事に没頭しようと、息を吐いて力を抜いた。周囲への警戒は、怠らずに。 ──瞬間、ピリッと肌に緊張が走る。意味もわからず大きく横に飛び退ると、ヒュッと風切音とともに先ほどまで頭があった場所にトンファーが振り切られていたのに遅れて気がついた。 ドガァン! 古い石壁のトイレが揺れる。奥の方から「えっ何!? あっちょっと漏れた」なんていう緊張感のない叫び声が聞こえてきたが、今はあとだ。てか掃除しとけよ。 じり、と緊張感を満たしたまま襲撃者と対峙する。 先ほどの振り、俺が避けていなければ今頃頭は粉々だ。 勘弁して欲しいよ。こういう時ぐずぐずしてたのは、いっつもお前だったってのにさ。 「随分物騒な挨拶だな、雪代」 「……あは」 雪代。 昨日見た時と変わらぬ装いで、ソレは佇んでいた。 「こそ、随分好戦的じゃない」 「……何の話だ?」 「白々しいなぁ。力を抜いて、わざと相手に攻撃させる──避けるのが上手いあんたが、よく使ってた奴でしょ?」 そう語る雪代はずっと笑んでいるけれど、ひとつも笑ってはいなかった。三日月型に口を歪ませ、薄氷色した瞳を歪に細め、笑っているふりをする人形のように。 雪代の笑顔は、いつだってそうだ。 「分かってて、乗せられたと?」 「乗せられてあげたんだよ。今回の勝負もね」 減らず口を叩きやがって、ガキが。 仮面を外そうとしない雪代に、知らず険悪になる雰囲気。ピリついた、一触即発の空気が場を支配した。 「……」 「……」 お互い、緊張を解かない。解けばそこで終わりだ。俺も雪代も、何かの決着さえつけばいい。人間の法なんてさして重要視していないのだから。 何の決着を付けるのかも分かっていないまま、用意された舞台でない場所で睨み合いが続いていた、時に。 「ふ〜吐いた吐いた。ごめんね律、戻ろウワッ人ォ!!」 「…………会長?」 「これは俺が悪いな……」 タイミングが良かったのか悪かったのかゲロ吐き野郎が戻ってきた。雪代も興が冷めたみたいな顔をして眉根を顰めている。そういえば俺、ゲロ待ちだったな…… 「あー、……取り敢えず、グラウンド行くか……」 「あれ? あの人って雪代詩乃じゃない? 氷帝の」 「何もかもおせーんだよお前はよ正也……」 まぁ、何はともあれ助かった。知らず知らず頭に血がのぼっていたみたいだ。そうだな、無法地帯での決着なんか──暴力での決着なんか、禍根しか残さないんだから。 そういう世界が嫌で、俺は雪代から離れたんだから。 ホッとしながら正也を連れて背を向ける。雪代は何かを考え込むように俯いて、のそのそと俺たちについてきていた。
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