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3年目
生きるっていうのは、絶えず四季が巡るこの世界と同じで、喜怒哀楽という要素を織り交ぜながら、出会いと別れを繰り返すことなのだと思う。
いつかはそんな日が来るのかな、と思ってはいた。ただし、それはどこかすごく遠くのことのように思っていたのも事実で、いざ自分がそういうシチュエーションに直面すると、とても胸が冷たくなった。
残り数ヶ月で、わたしも彼も、学生の身分を奪われる。自由気ままに過ごしていた四年間が終わると同時に、いきなり笹船で大海に漕ぎ出せというのだから、世の中残酷なものだ。
わたしと彼は、就職先が違う。わたしはこの街に残ることがほぼ確定。片や、彼は遠く離れた街へゆくことになる。最初の研修は東京らしいけど、配属先の候補は全国どころか、全世界にひろがるという。
何度も考えた。これ以上考えられないよってくらいに、考えた。
結果、わたしが導き出したのは、これからはお互いのために、別々に歩いていこう……という結論だった。
彼のことが嫌いになったわけじゃない。今も大好きだ。
だからこそ、会いたいときに会えなくなる、遠くの街へ彼が行ってしまう現実に、耐えられそうになかった。
喧嘩をしたこともあったけど、そのたびにわたしたちは、二人で強くなれた気がしていた。誰も引き剥がすことなんかできないだろうと思っていた。でも、思っていたのと違う角度から降ってきた粉雪が、わたしたちの足跡を消していこうとしている。
いや、わたしはこれから、自分でそれをやろうとしているのだ。振り返った時にすべてが消えているより、その方がいい……と言い聞かせながら。
お互いに納得できる結論が導き出せればいい。
そうなんだよ。
それでいい。
わたしは今日、キンと冷え切った風にまかれて、自分にそう言い聞かせながら、彼の家にやってきたのだった。
***
今日は、星も、月も見えない夜だ。
なんとなく空の方を向いて、わたしは独りぼっちで、ぽつりぽつりと街灯が照らす道を歩いていた。
もう歩くことはきっとない道に、足跡が一人分、切り取り線みたいに続いてゆく。振り返ってしまうと何かが溢れてしまいそうだったから、衝動をぐっと堪えながら前を向く。
真っ白になった道を歩くたび、ぎゅ、ぎゅ、と雪が鳴いていた。
わたしは、弱かった。
信じてる、愛してると何度も彼に言ってきたのに、最後の最後で、どうしようもなく、それが恐ろしくなってしまった。彼がわたしの知らない場所で、知らない女と出会って、仲を深めてしまうんじゃないか。そう思うと、時々どうにかして彼と会えたとしても、素直に笑えないんじゃないだろうか。そんなことばかりが、胸の中に降り積もっていった。
そうやって少しずつ彼のことを嫌いになるくらいなら、大好きなままでさよならを言いたかった。それは明らかに、彼は何ひとつ悪くない、わたしのエゴだ。もしかしたら、彼はわたしが隠そうとしたその気持ちに、途中から気づいていたかもしれない。
でも、彼は、何も言わなかった。
彼は最後まで、わたしにはもったいないと思うほど、優しかった。
また、雪がちらつきはじめた。わたしが刻んできた足跡も、きっとこの雪が何もなかったみたいに消してしまうだろう。
それでいい。きっと、そうだ。
ふと、少し先の街灯の下に、何か黒いものが、ぽつんと落ちているのが見えた。
転ばないように、少しだけ歩く速さを上げて、近づいてみる。
距離が縮まるにつれて、途中から、なんとなく落ちているモノが推測できたし、拾い上げてみると、その推測が見事的中していたことがわかった。
(……手袋)
指の長さからみて、左手用だ。チョコレートケーキにまぶされた粉砂糖みたいに、降りはじめた雪が、黒い手袋に少しだけ積もっていた。
まあ別にそれはどうでもよいのだけど、わたしはその雪をほろったとき、なんだか笑っていいのか泣いていいのか、正直よくわからなくなってしまった。
(……彼のじゃん、これ)
間違いなく、彼の手袋だ。わたしも何度か彼に借りて、この手にはめたことがある。自分の贈ったものじゃなくても印象に残っているのは、そういう理由もあるように思えた。
この道をこのまま進むと、T字路の角にコンビニがある。彼はそこの帰りに、この手袋を落としたのかもしれなかった。今日、彼の家に着いたとき、さっきコンビニで弁当買ってきた……と言っていたのを思い出したし、彼は手袋を持っているくせに、いつもわたしが言った時くらいしか手袋をしなかった。普段使わないモノで、慣れないコトをしたから、落として帰ってきたことに気づいていないのかもしれない。
なんか、さっき永遠の別れみたいな感じで出てきたのに、今更戻りにくいなあ。
少しだけ悩んだ。返しに戻るべきか、知らないふりをするべきか。
間違いなく、彼はこの手袋がなくても、さして困らないのは明らかだった。それなら、このままここに置いておけば、彼が気づいたら来た道を辿るだろうし、それでいいんじゃないか。
そうだよね。それがいいよ。そうしようよ。
自分への言い訳がどんどん得意になっていく。
嫌な女……と思いながら、わたしは一度拾い上げた手袋を、冷たい地面に戻そうとした。
後ろから、雪の鳴く音が間隔を空けずに近づいてきたのは、その時だった。
あれだけ振り返らないと決めていたのに、とっさの時は、あっけないほど簡単に決め事を踏み越えてしまう。
わたしが振り返ったところには、息を切らして肩を上下させている、彼が立っていた。さっき家で別れたときと同じ服装で。
にしてもコートくらい着ればよかったのに。さすがにパーカーじゃ寒過ぎると思うんだけど。
「あ、手袋―――」
言い切る前に、彼はわたしの身体をぐいと引き寄せて、抱きしめた。差し出そうとした手袋が、視界の端で、指先からこぼれ落ちていく。
「えっ……あの」
「……考えたんだけどさ」
彼が囁くと、一瞬だけ、ふわっと耳元があたたかくなった。温もりはすぐに、白くなって、夜の闇に溶けていった。
「……うん」
「おれ、やっぱり納得できそうにないんだよね」
「何に?」
「真綾が、これから俺の知らない男と出会って、恋人になったりすることが」
「……」
ほんっと、ずるいな。
そういうこと、さっき言ってくれればよかったのにさ。
わたしが黙りこくっていると、彼は言葉を継いだ。
「確かに、就職したら離ればなれで過ごす時間が増えるし、簡単には信じてもらえないと思うけど」
「……うん」
「おれは他の誰かじゃなくて、真綾と、幸せになりたいんだよ。さっき、一人ぼっちになって、やっぱだめだ納得できないわ……って、本当にそう思った」
「……」
「……このまま、もう一回、おれと一緒に帰ってくれないか」
わたしの頬に、わずかに触れた彼の頬は、すっかり冷たくなっていた。そりゃあそうだよね、こんな着の身着のままの格好で、雪のちらつく真冬の外にいるんだし。
なぜかわからないけど、舞い散る雪のひとひらが、急にぼんやりと、大きくなった気がする。
なんでだろうね。
「……だめかな」
それが正解なのかどうかはわからないけど、彼の問いに対する答えは、今更どれだけ考えても、一つしか思いつかなかった。
「だめ」
「……」
「……あと一回だけでいいのなら、だめ」
「……ほんと、イヤな言い方するよな」
「うるさい。……ほら、風邪ひく前に、早く帰ろ」
「ああ」
彼が差し出した手を、わたしはもう一度、しっかりと握る。
さっきわたしが落とした手袋を、彼はパーカーのポケットに入れず、反対側の手に持っていた。
「ポケットに入れないの」
わたしが訊くと、彼は「入れない」と笑った。
「大切にする。これのおかげで、また、真綾に会えたし」
「……そうだね」
少し、照れくさかった。
彼と一緒に、わたしはまた、帰り道を歩き出す。
今度は、二人分の足跡を刻みながら。
願わくは、これからも、ずっと続くように……と祈った。
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