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わすれる
仙台駅から車で30分以上かかる、錦が丘という地に二人の家はある。東京と比べて、地価は大幅に安いのだろう。80を超えた老夫婦が暮らすには、随分とだだっ広い二階建て家屋。子供がかくれんぼをするには、これ以上ない舞台だった。
まだ出発して5分しか経っていないというのに、駅周辺の喧騒はすっかり消え去っている。教科書のような一極集中に、未だ爺ちゃんが車を手放せないのも、充分に納得できた。
「婆ちゃんは元気?」
車が交差点で赤信号にかかる。仙台の静まり返った夜には、赤が不必要に映えていた。
「心臓の方は、ひとまず大丈夫だろうな。あとは……」
もともと寡黙な爺ちゃんだが、突然に声が止まる。人の一生では、黄色信号が必ず灯るわけじゃない。婆ちゃんが急性の心筋梗塞で倒れた時も、ほんとうに突然だった。
「政直のためにスリッパを用意しておくこと。夕食の皿を並べて置くこと。日めくりカレンダーを今日にすること。迎えに出る5分前くらいに、それと無く伝えておいた。あとは何個覚えているか、だな」
少しだけ車内が重く感じた。
「俺は、2個に賭けようかな」
婆ちゃんがボケ始めたのは、今に始まったことではない。昔からの、奥底に沈殿した記憶ならば、手付かずで残っている。だから会う度に、政直君と呼ばれるし、石川さゆりだって好きなまま。
それでも、情報の許容量は確実に減っている。今日の夜に遊びに行く、と電話で伝えた際には、前回の年末の記憶が綺麗サッパリ無くなっていた。
2個か、そうだといいが……。
車内にうっすら流れる仙台のFMラジオに、爺ちゃんの擦れた声は当然のように飲み込まれた。
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