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たべる
リビングも一年前と大差ない。現像して仙台に送ったその時の写真が、新しく壁に飾られているぐらいだ。
記憶をすり合わせるように、これまでの写真を眺めていると、嫌いな顔がそこにあった。全てを知ったような眼つきで、こちらを見据えている。前髪を入念に立ち上げた、入社当時の俺だった。
爺ちゃんが台所で忙しなく動いている中、婆ちゃんは一人用のソファに、ちょこんと座っていた。目の前のテーブルに、食器は並んでいない。
「いやぁ、何度来ても懐かしいんだよな」
俺は荷物を部屋の一角に降ろすと、爺ちゃんの手伝いに回った。
固定電話の横に置かれた、卓上の日めくりカレンダーは木曜日を示している。
「婆ちゃん、これ、爺ちゃんに頼まれてたんじゃない?」
「あれ、そうだったかい。まーた、忘れてしまってぇ」
婆ちゃんは座りながら、歯を見せて笑った。もう記憶が零れ落ちる事への恐怖はないらしい。その分を爺ちゃんが背負っている。
「進行を食い止める事は出来るんだから。練習、練習」
俺は代わりにカレンダーを捲った。時がようやく進んで、今日の日付に変わる。
【18:30 博、出迎え(仙台駅)】
【20:00 政直君が到着】
かなり狭い備考欄に予定が書かれていた。3つの項目の内、俺用のスリッパを用意する事だけ忘れていなかった、という事実を再認識し、思わず目頭が熱くなる。
「政直も座っといたらいい。出発前に用意はしてあるから、あとはよそって運ぶだけだ」
婆ちゃんは病状が進行すると、料理を作るのも難しくなっていった。大抵の家事は、爺ちゃんが一人でこなす。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
出てきたのは、米沢牛を使用したすき焼きだった。食材ごとにキチンと区画整理された南部鉄器から、甘辛い香りが立ち昇っていく。生卵や漬物が人数分配られる中、俺の前にだけ、ひとつの茶碗蒸しが置かれた。
これも、俺が落とした記憶だった。
「さぁ、召し上がれ。小さい政直君が婆ちゃんの茶碗蒸しを褒めてくれたのが、ほんとうに嬉しくてねぇ。これだけは思い出して作ったんだよ」
もう、何度も聞いた。それでも俺は、その発言を忘れてしまっている。
「覚えててくれたんだ。いただきます」
俺は婆ちゃんから器の中身が見えないように蓋を外し、木製スプーンを差し込んだ。茶碗蒸しは見た目以上に繊細な料理だ。分量を少し間違えるだけで、卵液が上手く固まらない。
婆ちゃんの茶碗蒸しは、かきたまスープのようになっていた。
俺だって覚えていない些細な記憶なんて、さっさと捨てたらいい。もっと重要なことなんて山程ある。それでも婆ちゃんの顔には、言いようのない緊張が浮かんでいた。
「やっぱり、婆ちゃんの茶碗蒸しは最高だよ」
「そうかい、嬉しいねぇ。爺ちゃん、政直君が美味いってさ。頑張った甲斐があったよ。今度から他の料理もあたしが作ろうかいね」
婆ちゃんがあからさまに饒舌になっていく。感情を包み隠さない幼気な姿に、俺と爺ちゃんもつられて笑った。
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