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 リマさんはインドネシアにある姉妹校で日本語を外国語として学んでいる高校生だ。随分と立派に聞こえるが、そのプロジェクトの実態は所謂自称進学校の名前に相応しいもので、主な内容は夏休みの間だけリマさんがこちらに何遍か顔を出すくらいだった。     日を追うごとに気温はじりじりと上がり続けているが、エアコン解禁日まではまだ遠い。そんな気怠い時期に差し掛かった頃リマさんは私たちの教室に現れた。    目、鼻、口以外の場所を布で覆って現れた。日本語で流暢な挨拶をしていた記憶があるが、あまりに淀みなく話すのでその中身はあっという間にどこかに流れてしまった。もっと正確に言うと彼女の見た目の方にばかり意識を集中させ過ぎて、話を聞く余裕がなかった。    身体の殆どを隠して生きる、どんな気持ちだろうか。誰にも見られたくないものを隠しておける。曝け出す必要がないものはそのままにしておける。考えるだけで胸がドキドキと動き出す。誰かに自分を判断する材料さえ与えない、そんな環境にいる彼女を羨ましく思った。狡猾な小林より、堂々として強い由衣ちゃんより、無責任を許されている坂井より、リマさんの境遇を羨んだ。彼女みたいになりたいと思っていた。そんな彼女を今私は目の前で見つめている。   「木村さん、よろしくお願いします」    彼女は緊張しているのか大きな目を伏せながら挨拶する。白い歯を光らせてはにかんでいる。その口元から何か早口に語っている、明瞭な発音で何かを語っているが私にはなぜか理解できない。    私が何か言ったら彼女の耳には届くのだろうか。その耳は今血を集めて赤くなっているのだろうか。日光から遮られたそこにある肌はどんな色をしているのだろうか。一本たりとも姿を見せないその髪はとても長いのだろうか。酷く気になる。気になって仕方ない。私と同じように後ろでゴムで括っているのだろうか。もしかしたら短く刈られているのかもしれない。光に当たったらどんな色を反射するのだろうか。黒、茶? それとも…… 「木村さん?」  気がついたら右手から彼女の体温を感じていた。その日も暑い日だった。私は熱に浮かされたようにフラフラと彼女を覆うその布に手を伸ばしていたのだ。  彼女の手が静止しなかったらどうなっていたのだろう。恐らく私は彼女を暴いていただろう。どうしてもその髪の毛の色が知りたくて。見えない肌の色を見てみたくて。私はその布をひっそりとめくっていただろう。隠したいものを隠しているはずのその布を、私が憧れていたその布を剥がしていただろう。    私は勘違いをしていたのかもしれない。身体を隠した彼女は誰かに自分を判断する材料さえ与えないと思っていた。誰かからくだらない名前をつけられる苦行を免除されていると思っていた。勝負から下りて楽に生きていると思っていた。だが私の心がそれを覆した。    私は隠されているものが気になる。隠されていると余計に気になってしまう。その下には何があるのだろうか、何か隠さなくてはいけない理由があるのではないか、何か弱みを隠しているのではないか。それが気になって仕方なくなってしまう。その下を覗いて、名前をつけて、あわよくば見下して安心したくなってしまう。身体を隠して生きることはこんな下世話な心と戦うことでもあるのだ。楽なわけがないだろう。私などが勝手に羨んで良いような人ではないだろう。    「木村さん、恐縮ですが、私はあなたに見られたくありません。あなたは私を見ないで下さい」  ビー玉みたいな目がいつの間にかこちらを見ていた。大きな黒目が多目的室の蛍光灯の光を跳ね返して眩しかった。彼女ははっきりと、堂々と、正当に私を拒否していた。    私は腋の下に汗が流れるのを感じた。 「ごめんなさい!私なんだかボーッとしてて、思わず」   「In return 私もあなたを見ません。私はあなたを気にしません。あなたをジャッジしません。したくないです」  英語の発音まで良いのか。驚かされているうちにまた彼女の言葉に追いつけなくなる。どういうことだ。彼女は私を見ない? そうしたら私はどうなる? 「私は目を閉じます。あなたが何をしてるか分かりません。私は気にしません。あなたが私を見ないなら、私も見ません。木村さんのやりたいことをして下さい」  私のやりたいこと? 私が本当に望んでいるのは、この□を捨てることだ。この馬鹿げたレッテルを捨てることだ。勝手にジャッジされて押し付けられたこのレッテルを捨てることだ。何も持たない私でいることだ。許されるならば、そうなりたい。    震える手でそれを握りしめる。  彼女の目は私のそれを見て、そして閉じた。無理な力は込められていないようなのに、その瞼は絶対に持ち上がらないような気がした。それぐらい誠実にしっかりと閉じられていた。    私はそれを掴む。一枚、二枚、掴んでは剥がしていく。いつから付いているのか分からないくらい身体に馴染んでしまったそれを剥がしていく。掌いっぱいに集まったそれらを眺める。本当にできるだろうか? 私は本当に捨てられるだろうか? 何も持たずに生きられるだろうか? 「木村さん、私の好きな言葉があります。日本語にしてくれますか?」  白い歯だけが動いていた。 「はい。何ですか?」 「You should drop something when no one is watching you」 「落とし物をしたいなら誰も見てないところでした方が良いですよ」 「良い言葉ですね」  彼女が笑った。時刻は17時40分、鐘は鳴らないが、ようやく私の放課後が始まったようだった。
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