プロローグ

1/1
244人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

プロローグ

 人々が忙しなく歩を進める昼過ぎの繁華街。そこにある大型デパートの入口の前で俺は惚けた顔をしながら停止していた。  目の前には巨大な広告。そこには、何色も混ざらない真っ黒なスクリーンをバックに、男性の横顔が印刷されている。白い肌に、襟足を刈り上げた黒いマッシュルームヘア。スっと通った鼻筋に切れ長の瞳を隠すようにかけられたフレームの幅が広い黒縁のメガネ。白い手には白雪姫の絵本に出てくるような真っ赤な林檎が握られており、齧りつかれたその痕からはじゅわりと果汁が溢れ出ていた。  彼の口元から覗く赤い舌に思わず俺は思考が停止する。ぼんやりと間抜けに開かれた口からは「待って」という自分でも誰に許可を取っているのかわからない、そんな言葉が小さく溢れた。  周囲の人々はそんな俺のことなど眼中にも入っていないようで、やや俯き気味に、歩を止めることなく流れて行く。ふと、広告の存在に気がついた女性二人が立ち止まるや否や広告を指さし黄色く甲高い声を上げた。 「うわ! タクトだ! 超かっこいい!」  その一人の声を起点に、周りの女子という女子が俯きがちだった顔を上げたかと思うと広告の前で足を止め、悲鳴を上げたり、写真を撮ったり、興奮気味に足をばたつかせたりし始める。「かっこいい」や「イケメン」などの褒め言葉や「付き合いたい」「抱かれたい」「いっそのこと犯されたい」などというセンシティブな言葉まで木霊して、俺はいちいちその声のする方へ顔を回し続けた。  背中に冷や汗が伝う。心臓が元気すぎるくらいに伸び縮みを繰り返し、胃の辺りが気持ち悪くなってきた。 早くこの場を去りたいのだが、足が動いてくれる様子がない。戸惑って広告を再び見たら、彼の官能的で蠱惑的な表情に目が離せなくなってしまった。 なんて顔をしているんだ。カラカラの喉で音を出さずにそう言うと、すぐ側にいた――学校をサボっているのだろう――女子高生が声を出した。 「これ新しいアルバムのジャケットかな? めちゃくちゃエロいじゃん」 「エ、ロ!?」  思わず声を上げてしまう。するとたちまち女性達の視線が俺の元へ集まった。怪訝。不審。胡乱。ありとあらゆる疑いを込めた視線。  「誰だこいつ」「なんだこいつ」等と言った言葉が彼女たちの口から発せられる前に、俺はリュックの肩紐をぎゅっと握りしめて、その場から脱兎の如く逃出した。  先ほどの動悸に、走り出したことによる心拍数の上昇が重なって身体がどうにかなりそうだ。兎に角俺はお気に入りのスニーカーがすり減ることなど全く気にせずに、自宅に向かって足を動かし続けた。  どのくらい走っただろうか。足がパンパンになって、もう動けないと宣言したところで、俺は目的地に着くことができた。  優しいカスタードクリーム色の外壁を持つ十四階建てのマンション。俺はそのマンションのエレベーターに乗り込み、七階にある「七○五号室」へ向かった。ふらふらになりながら、部屋の扉の前にたどり着き、カードキーをドアノブ上のカードの読み取り口へスライドさせる。ガチャリと解錠音が響くのを聞いてから、俺は勢いよく扉を開いて叫んだ。 「拓兎!」  その名前を呼んでずかずかとリビングに向かう。すると、きつすぎるくらいの冷房が効いた部屋の中で黒い長袖、長ズボンを纏い、何やら楽譜片手に林檎――丸々一個ではなく丁寧に切り分けられている、しかも冷凍されていた林檎シャーベットだ――を頬張っている男の姿があった。  不健康極まりない白い肌。その白とは真逆の真っ黒な黒髪と瞳。そして、スッとした白い鼻筋に掛かった黒縁眼鏡。それは、先ほどデパートの広告に描かれていた「タクト」その人だった。  奴は俺に気がつくと、何が面白いのか口の右端をくっと上に上げる。そして、赤い舌と白い歯を覗かせながらまずは「おかえり」を吐いた。その声に脱力してその場に崩れ落ちてしまった俺は、長い溜息を吐く。奴の笑い声に無性に腹が立った。  十代、二十代の女性を中心に話題沸騰中の、今をときめく、ソロアーティスト。タクトこと「浅木拓兎」は、俺「高藤真」の小学校の頃からの幼なじみで、親友で、そして――だ。今は訳あって、このマンションで同居生活を送っている。 「どうした。なんというか……マウンテンゴリラの大群に襲われたような顔をしているぞ」 「マウンテンゴリラではなくて、華奢な女の子達からの冷たい視線になら襲われたけどな……ってそうじゃねぇ! お前なんだよ、あの広告!」 「広告……あぁ、これか」  そう言いながら、拓兎は林檎のはいったガラス皿を片手に俺に近づくと自分のスマートフォンの待ち受けを見せる。そこには先ほど見たデパートの広告と同じ画像が表示されている。まさかこの男、自分のニューアルバムのジャケット画像を待ち受けにしているのか。どれだけナルシストなんだこいつは。 「今回は「禁断の果実」がテーマでな。収録曲もダークでセクシーなイメージの曲ばかりを収録している。特に十三曲目が自分で言うのも何だが最高にエモいんだよ。あの歌詞を考えたとき俺は天才かって思ったよな。まあ天才なんだけど」 「曲の話はどうでも良いんだよ! 広告として載ってたジャケットの話してんだ俺は!」 「あれ良いだろう。自分でも中々良い表情ができたと思うんだが、どうだ」 「どうだって……」  俺はもう一度、改めて、心を落ち着かせてその画像を見る。あのときは動揺しすぎて気がつかなかったが、拓兎の口の端から林檎の果汁がこぼれ落ちていることに気がついた。それも相まってとても―― 「え……」 「「え」?」 「え、っち……だな、って」  拓兎は見る見るうちに顔を歪めていく。それは、俺のことを「気持ち悪い」だとか「変な奴」と思っているような様子では決して無く、むしろ「気持ちいいライブをしているとき」と同じ表情だった。  こういう顔をしているときの、スイッチが入っているときの拓兎の側にいるのは不味い。俺はなんとか立ち上がって逃げようとしたが、それは叶わなかった。  拓兎は素早く床に皿を置いたかと思うと、腰が抜けて立てない俺を逃がすまいと壁に手をつき、所謂壁ドンをしてきた。ひっと声を上げると拓兎の顔が一気に近づく。ここ最近見た中で一番の笑顔だ。恐ろしい。 「た、拓兎?」 「ほほう? お前、この広告の俺に欲情したのか」 「よ!?」 「それともなんだ。広告を見て騒いでいる女子達に、俺のこんな表情を見られたくなかったとか、か?」 「そ、れは」  拓兎の指がゆっくりと俺の顎を撫でる。背筋にぞくりと電流が走り、思わず腰が浮く。拓兎はあの広告とそっくりな表情をして俺を見つめ続けた。 「どうなんだ? 正直に言ってみろ」  心底楽しそうな顔。その表情はまるで悪魔のようだった。 「正直に言えば……そうだな。今夜、あの広告でした表情以上に良い表情でお前のことを抱いてやろう」  さすが美声と名高いシンガーだと思わざるを得ないほどの良質で甘ったるい声が鼓膜を揺らす。拓兎は俺にゆっくりとフォークで刺した林檎を差し出した。  真っ赤な林檎。聖書の中でアダムとイブが食べた「禁断の果実」なのでは無いかといわれているその果実。  俺は拓兎の眼をじっと見つめながら口を動かす。彼は満足そうな笑顔をこぼすと、褒美だとでも言うように、俺の口に甘くて冷たい果実を、無理矢理にねじ込んだ。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!