0人が本棚に入れています
本棚に追加
あなたは絶望に心を囚われ、もう何も考えなくてもいい。そう自らに言い聞かせ、ホームから飛び降りた。
なのに、もう乗ることはないはずの、ぐるぐると一日に何度も輪を描く路線の電車内に、あなたはいる。
「また一人、地縛霊が増えた」
あなたより二十歳程年上の男が、あなたが何になってしまったのかを教え、人混みの中へと紛れていく。
その後ろ姿を目で追っていると、老若男女の地縛霊が複数いることに気づく。
あなたは後ろの車両へと移動しようとするが、どうしたわけか、連結部分から向こうへと行くことができない。それどころか、電車から降りることができない。
日が昇り、日が沈み、夜が来て、車庫へと戻っても、あなたは眠りにつくことができない。生前は酒や薬で夢のない眠りにつけたのに、それすら叶わない。
ああ、死んで楽になるなんて偽りだった!
だが、その叫びは誰にも届かない。
そんなある日、太陽が真東から昇り真西に沈む日。あの世とこの世の境目が曖昧になる日に、車庫から始発駅に向かう僅かな間に、あなたの頭の上から紙が舞い落ちた。
「今度こそ、ここから離れるんだ!」
地縛霊が降り注ぐ紙に向かって一斉に手を伸ばす。あなたもつられて手を伸ばし、それを掴んだ。
『傘(かさ)』
ただそれだけが書かれた紙。そんな紙に、なぜ必死になるのだろう。
首を傾げるあなたに、幼子が駆け寄り、手にした紙を奪い去っていく。
「おい! なにをする!」
追いかけようとするあなたの前に、始発に乗り込む人、人、人…… 小さな悲鳴と同時に床に転がる傘。その落ちた傘に向かって手を伸ばす幼子。落とし主がそれを拾い上げるまでに幼子がそれに触れたとたん、その傘に幼子の顔が重なった。
「うまくやりよった」あなたが地縛霊だと教えた男が、驚くようなやさしい顔をしていることにあなたは気づく。
落とし主は傘を抱きしめるように持って電車から降りる。と同時に、幼子の霊が天高く昇っていく。
……そうか、突如降り注いだあの紙は、地縛から魂を解き放つ紙なのだ。確かまだあったはず。
あなたは人混みの中、紙を探す。だが、その紙は次の太陽が真東から昇り真西に沈む日まで、見つかることはなかった。
それから何度、その紙を手に入れる機会が訪れただろう。何人の地縛霊が天高く昇っていっただろう。
半年に一度の日を指折り数え、気が狂いそうな毎日の中の唯一の希望にすがりつく。
そして今日、その日がきた。あなたは一日をかけてすることを心の中で復習する。
紙を拾えるチャンスは車庫から始発駅に着くまで。紙は何枚も拾えるが、始発駅に着くまでに一つにする。
ほら、電車が動き出した。
頭上から何枚の紙が降り注ぎ、地縛霊はみな、その紙を手にしようと一斉に手を伸ばす。
あなたは無事、紙を手に入れた。だけど、紙を手に入れたことに安堵してはいけない。まずは紙に何が書かれているか確かめなければならない。
あなたは降り注ぐ紙を取り損ない、床に落ちた紙を探すふりをしながら、紙に書かれていた文字を素早く読んだ。
『時計(とけい)』
これはありそうで、ないことが多い。
『傘(かさ)』
これはよく落とし物になるが、今日の天気はどうだろう。
『鞄(かばん)』
これもよく忘れ物になるが……
『定期券(ていきけん)』
これもいい。
さて、一時的に魂の居場所にする物、あなたは、どれにする。もうすぐ始発駅だ。
……決めた。鞄にしよう。
電車が始発駅に着くと同時に、選んだ紙以外の紙が消え失せ、次々と乗客がやってくる。
あなたは鞄を持った者がいないか、視線を張り巡らす。
鞄は比較的、手にしている者が多い。だが問題はそこから。
まず、あなたが何を選び取ったのか、他の地縛霊に悟られてはいけない。同じ物を探している者がいて、先に触れた者の魂の居場所になり、別の物に魂を移し変えることができなくなる。
魂の一時的な居場所にできるのは、持ち主の手から離れた時のみ。
持ち主がすぐ触れるか、あるいは、親切な人の手を借りて電車から降りたとき、魂の地縛が解ける。
ただし、鉄道の従業員の手によって電車から降ろされると、再び電車内に地縛されてしまうので注意が必要。
タイムリミットは、日付が変わるまで。
椅子取りゲームと借り物競走を足したような、自分の魂の解放をかけた一日がはじまった。
始発電車は次の駅へと動き出す。
落とし物や忘れ物を探すとないもので、午前はあっという間に過ぎてしまった。
地縛霊になったことを教えてくれた男が「お先に」と電車から降りていった。あなたが魂の居場所に選ばなかった物に取り憑いて。
あなたは悔しさよりも、感謝で心がいっぱいになり、電車から降りていく様を頭を下げて見送った。
学生らが乗り込む頃になっても、サラリーマンが乗り込む頃になっても、鞄を落としたり、忘れたりする者はいなかった。
……また、今回も電車から地縛が解かれることはないのか。諦めかけたあなたの目に、鞄が床に落ちていくのを目の当たりにした。
今日という日は残り僅か。あなたは持ち主の身体から離れるや否や、その鞄を己の魂の居場所とした。
後はこのまま電車から降りるだけ。日付が変わるまでに。
電車が止まり、ドアが開いた。あなたは持ち上げられ、電車の外に出た。
やった、これで永遠の眠りにつける!
電車の外に出られた!
だが、いっこうにあなたの魂は鞄から離れられない。それどころか階段の影になる場所へ落とされた。
あなたは見る。あなたの魂が取り憑いた鞄を落としたのは、持ち主とは違う人物。鞄から抜き取った紙幣をポケットに滑り込ませるのを。
窃盗。あなたは窃盗犯によって、電車の外に出されたのだ。
唖然とするあなたの目に、ホームに掲げられた時計が0:00を指す。
あなたは階段の影に転がったまま、駅の明かりが消えていくのを見た。
これから、どうなるのだろうという不安が、あなたの心に湧き上がってくる。
あの夜から幾日過ぎただろう。あなたは今デパートで行われる忘れ物市の商品の中に紛れている。
あなたは一番恐れていた、ゴミとして焼却されるという恐怖から逃れることができた。
次は売り場から離れなければならない。
あなたは行き交う人に買ってくれ、買ってくれと念をおくる。何日も何日も。箱に詰め直され別の場所に運ばれて、並べられて、また念をおくる。
売り場をいくつ変わっただろう。いくつの季節が過ぎ去っただろう。あなたはようやく売り場から離れることができた。
だが、あなたの魂は鞄に縛られたまま。あなたの魂が鞄が、ぼろぼろになって、ゴミとして出されるのは時間の問題となってきた。
あなたの魂が取り憑いた鞄を、忘れ物市で買った者の娘が、あなたの魂が取り鞄を借りて出かける。
行く先は駅。あなたがホームへと飛び降りたような人混みあふれる駅ではなく、人の数は疎らで本数も少ない。
電車は進む。進むに従って、電車の中は人、人、人……
あなたは突如、床に落ちる。落ちた衝撃で、あなたの魂は取り憑いていた鞄から離れると同時に、鈍い音と共に瞼の裏に星が散った。
「あいたたた……」
「なんや、先客がいてはったんやな」
あなたの向かいに額に手を当てるヒョウ柄の服を着た中年女性が。
「やけど、兄ちゃんのおかげで助かったみたいや」
中年女性が指し示す先で、落ちた鞄を拾い上げ、壊れた。新しい物を買わなきゃ。という声に、あなたも間一髪で魂が助かったことを知る。
へなへなとあなたは、その場に座り込んでしまう。
「兄ちゃん、頭大丈夫か?」
「大丈夫です」
あなたは立ち上がりながら、振り出しに戻ってしまったと呟く。
ふと見た車窓から見える景色は、初めて見る景色。今橋の向こうに青い水平線が見えた。
「兄ちゃん、もしかして琵琶湖見るんはじめてか?」
あなたは頷く。
「兄ちゃん、なんかえらい目にあったようやな」
「ええ」
あなたは、このオバチャンに、何もかも話したい気分になった。
「そや、兄ちゃん、飴ちゃん食べるか?」
ザ・関西。オバチャンの笑みが、あなたの顔にうつる。
最初のコメントを投稿しよう!