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1.伊吹
好きになるのに理由はいらない。
そういう界隈では、俺みたいなのはやたらモテるか、ひどく敬遠されるかのどちらからしいのだが、詳しい友達によれば、俺は割と好かれる「身体」をしているそうだ。
それが関係するとは思えないが、結婚のタイミングを見事に逃し続け今に至る。もしかするとそれは、この日のためだったのだろうか。
目の前に、信じられない光景が繰り広げられている。
「里村」
3-Aの担任 名波眞比呂氏は、8歳年上の35歳。
細身でバランスの取れたスタイル、俳優になれそうな甘いマスク。おまけに声もいい。
祖父がロシア人だとかいう噂もちらほら耳にする。
彼がなぜ、この俺に詰め寄っているかというと、別に仕事でヘマをしでかしたわけでもなんでもなく。
俺は、一世一代の告白をしてしまった。
それも、昼休みに。
「…これは2人だけの秘密だ」
「名波先生…」
生徒が来たらまずい、というのと、どんな顔をしたらいいのかわからない複雑な感情がごちゃ混ぜになる。
俺も、名波先生も男。
人生でこんなに惹かれた人は他にいない。
理由を聞かれても、うまく説明出来ない。
仕事をしている横顔をつい目で追ってしまう。電話に出る声をつい盗み聞きしてしまう。
答案の採点をする手の形も、煙草に火をつける仕草も、全て。
その彫りの深い名波先生の顔が、斜めに角度をつけてゆっくり近づいて来る。長い睫毛を間近で見るのは初めてだった。
なんて整った顔だろう。密かに女子生徒が「美人」とあだ名をつける理由がわかる。
今、名波先生とキスしようとしている。
ふと思い出したのは、高校生の時に勢いに任せて同じクラスの女子としたファーストキスだった。
甘かったのかどうかも記憶にない。
だけど、今この瞬間が、本当に好きで好きで仕方のない人との、ファーストキスになる。
一生忘れられない瞬間になる。
名波先生の唇が、とてつもなく優しく俺に触れた。
本当に惚れた人とのキスが、こんなにも幸せで照れ臭いものだなんて、すっかり忘れていた。
里村伊吹、27歳。
好きになったのは、同じ高校で働き3年生を受け持つ、先輩。
男性だった。
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