父親

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信也さんの声が聞こえた気もする。 けれど自分の息を吐く音の方が大きかった。心臓の鼓動がどんどん早くなる。 苦しい。怖い。 「吐け、ゆっくり」 視界も定まらず、信也の声にも抗って仄は首振った。暴れに暴れ、紙袋も払うと今度は口を男の手が覆った。 信也は1・2・・と数を数え指を離す。 「吐け」 その声もやはり届かない。 少し待って、もう一度口を覆った。 声も出ず、仄は口を覆うその手を握りしめた、爪が食い込む程強く、それでもその手は離さない。 数を数え、再び指を離す。 今度はタイミングを教えるように背中を押した。微かに吐息が指にかかる。 「そうだ」 耳元で信也は言った。 もう一度、口を覆う。 相変わらず爪は食い込み、しがみつく手の力は強いが何度か繰り返すうちに仄の手から力が抜けた。 からだ全体で呼吸する。 呼吸が落ち着きぐったりと倒れ込む体を そのまま座布団に寝かせると信也は息をついた。 手についた爪の跡をじっと眺めると信也は厨房へと戻っていった。 「仄は?」 その手前で晶が駆け寄ってくる。 「寝てる」 一言だけ言うと信也は拓海に調理の状況をきいた。晶はその様子にほっと息をつく。 「しっかし、信也は何でも出来るわね」 思わず笑顔で言う晶に、信也は洗い物の手を止め、珍しく目を伏せた。 「好きで覚えたんじゃねえよ」 流水の音に掻き消されるほどの小さな声だった。 留守中の店長の代わりに晶が清水家に 連絡すると、暫くして雨は上がった。 「本当に申し訳ありませんでした」 晶は迎えにきた男性に頭を下げた。 店先に車を止め、出てきた硯に何度も頭を 下げながら事の成り行きを話す。 その間に店から信也が仄を抱えて運び出した。 話を聞いた硯は晶を怒るでもなく、そっと目を伏せて言った。 「仄は嫌がらせなんて平然と黙って耐えられる子です。ただ...あの子は自分が親を殺したと思っているから」 「...え」 晶の困惑した顔に硯は悲しそうに微笑んで 「勿論、仄の思い込みですがね」 と、付け足した。 二人の会話を聞いていた信也は後部座席に 寝かせた仄の顔にかかった長い前髪を 掬い上げ、その顔を見た。 整った呼吸。下瞼に残る泣いた跡。 「馬鹿が」 思わず呟く。 車のドアを閉めると硯に頭を下げ、信也は 厨房に戻っていった。
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