あの日の落としもの

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あの日の落としもの

 海が嫌いだ。  優しく鼓膜を震わせる波の音や、乱暴に頬を撫でる潮風が嫌いだ。  あの日からちょうど二年がたった。  記憶の中の足跡をたどり、わたしは二年前に歩いた場所を正確になぞると、あの日二人で肩を温め合った波打ち際に立つ。    あの日、海に落ちたピアスを探すため、匠海は十月の冷たい海に入った。――がしかし、パールのピアスは海に還ろうとするかのように沖へ流されていった。  彼は腰上まで浸かるようなところまで探しに行き、潜ってピアスを拾おうとした。その時、無理な姿勢をとり、足がつってしまったようで、彼はパニックに陥って(おぼ)れてしまった。  慌てたわたしは警察に通報し、到着する前になんとか匠海の身体を陸に上げようと試みたけれど、水を吸った服と脱力しきった男性の身体は重たく、一人で引き上げることは叶わなかった。  そして、警察が到着した時には、匠海はすでに息を引き取っていた。  わたしは、世界中の誰よりも愛する彼を(うしな)った。彼の微笑みも、言葉も、未来も、思い出も、光の届かない海の中に溶けだしてしまった。  何度も何度も後悔した。あの日、わたしが海に行こうなんて言わなければ、わたしがピアスを落とさなければ、匠海は今も元気にしていたはずだ。わたしのせいだ。わたしのせいだ。わたしが殺したようなものだ。  わたしはどうなってもいい。だから、どうか匠海を返してほしい。お願いします。誰でもいいから、匠海を返してください。    波のうねりが大きく騒ぎ、強制的に追憶から連れ戻される。祈っていたはずなのに、なにに祈っていたのか、自分でもわからない。神様か、あるいは海なのか。いずれにしても、絶対にどこにも届かない祈り。  二年前の今日と同じフラットシューズを脱ぎ、泡立つ波に足先をつける。  ――うわっ、冷てぇ  そう言いながらも、匠海は季節外れの海に躊躇(ちゅうちょ)なく入った。あの時止めていればよかった、と思わない日はない。あのピアスは紛れもなくわたしの宝物だったし、左耳で揺れていたあの時の片割れは、今もアクセサリーケースに保管されている。  でも、もう耳につけることはない。あれに触れると、いやでもあの時のことを思い出してしまう。彼がこの世からいなくなった瞬間を、あのピアスはまざまざと呼び起こさせるのだ。  片割れを喪ったピアスは、これからどうすればいい? わたしはどうやって生きていけばいいの?  耳障りな波の音を聞きながら、はるか遠くの沖を眺めて海に問う。彼がくれたパールのピアスと、大好きな彼自身を奪い去った海は、チラチラと光を反射しながら、あの日と同じ表情を見せている。  わたしの共犯者のくせに。  心の中で毒づくと、波に乗って砂浜に打ち上げられた何かが足先に触れる。足元に視線を落とすと、砂粒にまみれた何かがきらきらと光っていた。  おもむろに屈んで、光るそれを手に取る。涙を凍らせたような形のパールに、海水の浸食で古い十円玉のような色になっている金属。それは二年前のあの日、波にさらわれたわたしのピアスだった。  ふざけないでよ。あの日とは、もう何もかもが違う。あの日落としたものはこれだけど、返してほしいものはこれじゃない!  ピアスだったそれをぎゅっと握りしめると、そのまま手を振り上げる。が、彼の思いがこのパールを届けてくれたのかもしれないと思うと、どうしても投げ飛ばすことができなかった。  目から零れ落ちそうになる涙を袖で拭い去り、元はピアスだったものを握りしめると、足元にある靴を拾い上げる。少し濡れたままの足に砂粒を付けながら、波打ち際に背を向けて歩き出すと、ゆっくりと振り返り、今まで立っていた場所に視線を向ける。  わたしがいた痕跡を慌てて消すかのように、白く泡立つさざ波が一人分の足跡を消し去った。
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