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あの日の追憶
海が好きだった。
優しく鼓膜を震わせる波の音や、乱暴に頬を撫でる潮風が好きだった。
「夕凪、早くこっちに来なよ! すごくきれいだよ」
大好きな彼が、わたしを呼んでいる。
夕日でオレンジ色に染まった海を背に佇む彼は、黒いシルエットとなり、印象派の描いた油彩画のように幻想的だった。
十月の海に海水浴客の影はなく、波によって均された砂浜には、二人分の足跡しかない。この海の全てが二人の所有物になったような錯覚が楽しい。
「待ってよ、匠海。あんまり波に近づくと濡れるよ」
「大丈夫だよ。ほら、はやく」
大学生になった昨年の春に、初めてできた彼氏。普段は生真面目でおとなしいくせに、こういう時には子どもみたいにはしゃぐ彼が、どうしようもなく愛おしい。
手招きされるがまま歩み寄ると、海を眺める彼の横顔を一瞥して、わたしは目線の高さにある左肩に頬をくっつける。潮風で冷たくなった頬が、彼の体温で少しずつ温められてゆく。
「急にどうした?」
「う~ん、なんか匠海に触れたくなった」
「ん、そっか。なんか照れるな」
肩に寄りかかるわたしの頭を、彼の骨ばった右手が優しくなでる。そして、その手はゆっくりと、わたしの耳で揺れるパールのピアスへと移動した。
「俺がこの前の誕生日に贈ったピアス、つけてくれてるんだ」
「今日ずっとつけてたんだよ。もっと早く気付くと思ってたのに」
「えっ、マジ? なんで気づけなかったんだろ」
その答えはきっと匠海には分からないだろうけど、わたしはなんとなく気が付いていた。初めて会った時からずっと、言葉を交わしたときの彼の目が、脈絡なく微笑みかけてきた彼の目が、わたしの目に「好き」を伝えていた気がしたから。――耳になんて、焦点が合わないくらいに。
彼はゴツゴツした右手をゆっくりと耳から遠ざけると、左腕でわたしの肩をぎゅっと抱き寄せた。『気が付かなくてごめん』の代わりのつもりらしい。
二人だけの砂浜。二人だけの海。わたしは右耳にかけていた髪の束を、そっと指先でほぐして顔の横に流し、紅く染まっているであろう自らの頬を隠す。
その時だった。右耳で揺れていたパールのピアスが、服の袖に引っ掛かり、波打ち際にぽとりと落ちてしまった。
「あっ!」
涙を凍らせたような形のパールは、左耳に残った片割れを残して、自分だけ海へ還ろうとするかのように、押しては返す波に翻弄されている。
「どうしよう! ピアス片方落としちゃった」
「えっ、どこ?」
「ほら、あそこ」
彼にも位置が分かるように、水の中で光を反射するパールの位置を指差す。今取りに行けば、足首が濡れるくらいで済みそうな位置だった。
わたしがフラットシューズを脱ぎ、海に入ろうとすると、匠海に右手首をぎゅっと掴まれる。
「俺が行くよ。夕凪はここで待ってて」
そう言って彼はスニーカーと靴下を脱ぎ捨て、穿いているデニムの裾をたくし上げると、季節外れの海に足をつけた。
「うわっ、冷てぇ」
「無理しないでね」
匠海は冷たい海に浸かりながら、懸命にピアスを探す。
でも海は、わたしの大切なものを容赦なく奪ってしまった。
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