チャペル

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一  寂しげな置物といったようなチャペルから歓声がワッ、と聞こえた。ユリ子が目を向けるとちょうど見知らぬ着飾ったひと達の前に、見知らぬ新郎と新婦が姿を現したところだった。「おめでとう」「幸せに」という言葉と色とりどりの花びらと拍手の中を歩く二人を見ている十歳のユリ子は世界中に不幸など存在しないと幻想を抱き、純白のドレスや祝福、宝石のように輝く幸運はいつか自分のもとにも巡ってくるものなのだろうと思っていた。 二 「あのチャペル、閉鎖したんだって」と朝食の席で母から聞いた時、「へえ、そうなの」とだけ返した。十四歳のユリ子は幻想よりも目の前に常に突きつけられる現実――つまり、勉強や交友関係や趣味に時間と興味を費やしていた。  ステンドグラス――ふと閃いた事柄に見知らぬ新郎と新婦の姿まで思い起こされた。チャペルの売りの一つであったステンドグラス。幸せな二人の門出をその神秘的な光で包み、見守ってきたステンドグラスを一度くらいはこの目で見ておきたかったと思った。 三  学校の帰り道で雨に追い立てられたユリ子はちょうどよく、あのチャペルへと行き着いた。十六歳の頃だった。霧雨の中で佇むその姿は二年という歳月以上のものを感じさせた。扉をそっと押してみるとギィ、と音をたてて簡単に開いてしまい、鍵の掛け忘れなのか、もはや見捨てられた存在なのか、どちらにせよ物悲しい気持ちがユリ子の胸を占めた。  ジャンパースカートの裾をはたいて雨粒を落として中に入った。雨を吸ったローファーが一歩進む毎に何かの動物のように鳴く。辺りはしんとしていて真っ暗だけれど埃臭くもなく想像よりずっと綺麗に保たれていた。ユリ子はベンチが両脇に並ぶ真ん中の道を奥まで進み、顔を上げた。暗闇の中ではステンドグラスは見えなかった。 四 「ねえ」  雨が強くなっていた。気のせいかと思ったが、もう一度「ねえ」と声が掛かった。ユリ子は辺りをゆっくりと見渡しながら、自分と同じように雨宿りに来たひとなのだと思った。 「何か」と相手に届くように声を張ると、暗闇の向こうに人影が急に浮かび上がったように見えた。大人の女性だと直感的に思った。 「私の話を聞いて欲しいの。雨が、弱まるまで」  年上と思しき声が小さな迷子のような事を言う。「はあ……」と困惑のまま曖昧な、返事ともつかない声が漏れた。 「私……人を殺めてしまいそうで」  暗闇にぼんやりと見える人影をユリ子は凝視した。 五 「違う……違うの」 チャペルに響くのは人影が一方的に語り出す声と雨音と自分の心臓の音だった。 「お付き合いをしているひとが居て、出会ったのは十六歳の時だけど最初はただの友達で、別々の大学に進学してから恋人になったの。勇気を出して私から告白して、良い返事が貰えてとても嬉しかった。……幸せだった」  指揮者のように人影が手振りすると雨脚が強まって暗闇が一層濃くなった。 「子どもの頃は花嫁に憧れてたけど、中学生の頃には薄れていた。そういうのって誰にでもあると思うの。……幸せだったから、憧れてた気持ちを思い出した。だから憎くて。許せなくて。いっその事、私か、浮気した恋人か、殺めてしまおうと……そんな事ばかり毎日考えていて……」 「別れたら――」 「でも好きなの」と被せるように返事が来る。 「じゃあ……一回の過ちは許してあげるとか」 「就職してすぐに一回、その後に二回も浮気された。いつかは……いつかはってその度に思って結局、私だけが苦しい」  怒りと悲しみのような雷鳴が近づいている。ユリ子はこの不気味な空間、不気味な巡り合わせを怖ろしいとは思わなかった。語り手が紡ぐ境遇に同情すら湧いているのは、見知らぬ新郎と新婦が永遠に幸福だと信じ込む気持ちと同じである気がした。そこにあるのは理解ではなく、カテゴリー化された感情の知識だった。 「死ぬのも、……殺すのも、駄目だと思う」 「そうね……」 「元気出して」  心を込めても在り来たりで上辺だけの励ましになり兼ねない言葉に「……そうね」と先程よりも明るさを含んだ声が返って来た。その瞬間、雷光が走り、ユリ子は初めて相手の顔を見た。大人の女性。見覚えがある気がしたがすぐにまた暗闇に包まれてしまう。雷鳴だけが二度、三度と続いた後に外は静かになり雨音も聞こえなくなった。 「話、聞いてくれてありがとう……何とかしないと」  消え入る声に憎悪が交じった気がして目を瞠る。窓から一筋の光が差し込んで、徐々に辺りを明るくしていく。雨は上がり、その残り香の中でユリ子は深呼吸をした。――誰も居ない、一人きりの空間に取り残され、心細さに似たものを感じた。扉のギィ、と鳴く音も聞こえなかったように思う。忽然と人影は消えていた。暫く立ち尽くしていたユリ子は縋るような気持ちで振り返った。  そこにステンドグラスはなかった。 六  朝起きた時には覚えていた夢の内容を忘れていくように、私はこの出来事をすっかり忘れていた。この時までは。  ……幸せで、憎くて、許せなかった。憧れを思い出した。好きだった。私から告白しなければよかった。毎日……いつかは……結局……いっその事…… 「何とかしないと」  鏡に向かって呟くと誰にでもある憎悪する心が自分のすべてとでもいうように膨れ上がり、純白のドレスもステンドグラスも粉々に打ち砕いていく。  自宅の洗面所を出てリビングへと行く。四度の浮気をした恋人が住むマンションの合鍵を一つきりでテーブルに置いたまま数日がたった。不幸の象徴と向き合い考え疲れていた私はもはや神に縋る事しか出来なかった。  いつか見たステンドグラスの光を思い出す。「元気出して」と無垢な声が蘇り、自分で言ったものなのか、言われたものなのか分からなくなっていた。
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