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―夕―
湯を浴びて、夕刻の空を眺めていたミナは、その存在に気付いて、振り返った。
まだ、小さな影に向けて腕を振り、たちまち表情の判別が付くほどに近くなる彼らを、手招きで引き寄せると、鍛練場の一角に降り立ったルークの前に立ち、ちょっと怖い顔をして見せた。
「こら!仕事をほっぽり出すなんて、社会人のすることじゃありませんよ!」
直前までの笑顔が罠だと知ったルークは、そちらに衝撃を受けて、驚きの表情だ。
それがおかしくて、ミナは、すぐに吹き出してしまった。
「ぷはは!もう、ルークは。もう子供の年齢じゃあ、ないんですけどね」
笑いが残るけれど、困ったような顔のミナに、ルークは、それまで高揚していた気分を、地に落とし付けられた気がした。
それは、とても柔らかな着地だけれど、押さえ付けられる重みは、軽いものではなかった。
「ごめんなさい…」
「だいじょうぶ。でも、単独で飛び出したら、みんな心配します。カィンはもとより、親衛隊を連れて来ているだけでも、よかったです。みんな、お疲れ様。一先ず、湯を浴びておいで」
ミナとともに、この場に来ていたラグラが、そっと付け加えた。
「よろしければ、セスティオ・グォードの大浴場に行かれては、いかがでしょう。ひと息つくには、ちょうどよいかと」
「ああ!そうそう、男の人たち、楽しそうだよ!たくさん、人も獣もいるし、様子見も兼ねて、都合がいいね!この船の船員に声、掛けて、着替えを持たせてもらうといいですよ!」
そう言うと、ミナは、驚いた顔の、でも元気のなくなったルークの肩を、ぎゅっと掴んだ。
「ね。反省したなら、それはそれ。今度から、教えてください。私たちが見逃してること。きついなって、とき。いっぱい、押し付けるものは変わらないけど、それでも、一緒に抱えるから。そうしたいから」
「ミナ」
ミナは、両手を差し出して、求め、握り合ってルークの目を見た。
「今日は、ちょっとだけ、息をつきましょ。朝になったら、また、頑張れるようにね」
「ん…」
ずっと、世話の焼ける目上の女として、見守っていたけれど、自分の方こそ、見守られていたのだと、ルークは気付く。
役割としては、もちろん、頼っていたけれど、同時に、守るべき民として、大切な身内の1人として、自分こそが、守る、存在だと思っていた。
でも違う。
もちろん、守る。
それは変わりないけれど。
ミナは、彼女なりに、ルークのことを、守ろうと、してくれているのだ。
その意識こそが。
今、自分の心を、抱きしめて、くれている。
息を吐いて、気を取り直し、笑顔を上げると、ミナも、にこりと、笑顔を返した。
「まったく、ミナは結局、誰にでも甘いんだよな!」
声の方を振り仰ぐと、ジュールズが高い空中から降り立った。
「ははっ。誰にでも、いい顔をしたいわけじゃないんだけど」
悪い意味かと受け取るミナに、ジュールズは、盛大な溜め息を吐く。
「そうじゃなくて!まあ…、はあ。いいよいいよ。俺様を甘やかしてくれるんならさ…」
ぶつぶつ呟いて、がしっと、ルークの頭を掴んだ。
「たまに無茶振りすることで、発散し切ってると誤認してたようだ。彩石騎士の1人として、不甲斐ないことですまん」
ジュールズが自らの非を認めることは、普段の行状からは意外なことに感じて、驚きに目を大きくしたが、そうすることで相手の心を掬い上げることは、彼らしい気遣いだとも、思い出す。
そう。
こんな、感じだった、昔から。
安心感に憩うのも束の間の話で、すぐに、掴まれた頭が、ぎりぎりと圧迫を受ける。
「痛い痛い痛い痛い!」
「言えるじゃねえかよ、未熟者め」
ふっと息を止めると、ジュールズが手を離した。
「ちょっとは、言えた気になったかよ」
言えた。
痛いって?
別に、言えないことではないし。
疲れたと。
いや、大変だと、そんな文句は、よく言うけれど。
そう言えば、最近、疲れた、なんて、言うと、気を使わせるかと、避けていた気がする。
不満ひとつも、言葉を選んで。
それはもちろん、聞く相手が居るなら、気を重くするような単語は、避けるけれど。
その度に、心を、押さえ付けて。
苦しい。
「どんなに、やり抜きたいことでも、苦労や疲労がないわけないだろ。ないわけないって、ちゃんと分かってるから。出して当然の言葉まで、抑えるなよ。その程度で潰れるほど、弱くないっつの」
「でも、ジュールズ」
「歯止めが利かないなら、止めてやる。そのための、同志なんだから」
ほかの国には居ない、こんな、騎士たちは。
四の宮公のような血筋でもなく、代々の双王を支えてくれた、彩石騎士たち。
それだけの力量を持つ者が在ることさえ稀なのに、騎士となって、アルシュファイド王国を守ってくれる。
双王を支えてくれる。
ルークはちょっと、泣き笑いのような顔になってしまったことに気付いたけれど。
仕方ない。
本人の性質もあって、同じ王城で暮らしていたときも、祭王と彩石騎士という関係になってからも、会うことの少ない彼だったけれど、どこか、兄に対するような甘えが、あるようだ。
「うん」
それだけ、やっとの思いで言うと、涙はなかったけれど、頬の辺りをごしごし擦った。
自分で、立つ、それは、双王の1人である以前に、人としての、自己の確立。
それよりなにより。
男、だから。
意地を張っちゃう、意識が強いのだ。
力の強さを誇示するためではなく。
きちんと、自己ではない、いろんなものを、守る力があるんだって、示して、認めてもらいたい、そういう、意地。
双神が造ったのは、ただの器。
心を形作るのは、体を動かすための、ただの機能なんだろう。
それが、様々なものを見て、学んだ。
きっと、男神と、女神を見て。
その違いが、意識に刻まれて。
子に、同じように、見せることになったのだ。
理想像。
たぶん、そう。
生まれてからこれまでに、得た様々な事柄から。
そう、呼ぶべきものが、胸に、置かれた。
ルークは、男である自分を意識した途端、なんだか、お腹がくすぐったくなって、笑ってしまった。
大丈夫。
今度は、ちゃんと、笑えている。
「うん!じゃあ、僕、湯浴みに行くね!」
「行ってらっしゃい」
ミナが笑顔で言う横で、ジュールズが、首を傾ける。
「ん?お前、………まあ、いいか?」
「え、何。何かあるの?」
「いや。それはそれで、おもしれえから、俺はいいぜ。行って来い、大浴場」
「うん?はっきりしないなあ…」
カィンが、ようやく言葉を発した。
「シィンですよ。今は居ないから、いいんじゃないですか」
「あ」
共同浴場とか、イエヤ邸での宿泊でも、男同士とは言え、多人数での入浴には、シィンの鬱陶しい抵抗に遭っていたのだ。
「そっか!ぶつぶつ言われなくて済む!わーい!行ってきます!」
どの道、最終手段として、強行してきたので、文句を言われないことに開放感を覚えるほどだ。
用心のため、このことは自分からは言うまいと、カィンと、そして同行していた5人の親衛隊隊員は、固く口許を引き締めた。
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