ただ、あの壇上に登りたいだけだった

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「佐藤さん、そろそろ閉室時間ですよ」  顔見知りの司書の先生に声をかけられた。  まだ図書室に残っている生徒は、いつの間にか私だけだ。思っていたより長いこと物思いに沈んでいたらしい。窓の外の空は蜜柑色に染まっている。 「そういえば佐藤さんは、向坂さんと仲が良かったですよね?」  突然、先生の口から飛び出したあの子の名前に、肩が小さく飛び跳ねる。  でも、冷静に考えてみたら、焦る必要はなかった。去年まではよく二人で一緒に図書室にも来ていたから、先生は単純に仲良しの二人組として認識していたのだろう。 「ああ。まぁ」  歯切れの悪い返答しかできないでいる私は、先生の目にどう映っているのだろうか。 「……詩織が、どうかしたんですか?」  かすかに声が震えてしまったのを悟られたのではないかとびくびくしたけど、彼女は気がつかないまま、ある一冊のノートを目の前に差し出してきた。 「これ、昨日の図書室の落とし物なんですけど、どうやら向坂さんが忘れていったみたいなんです」  隅の方に小さく、向坂 詩織と書いてあるでしょう? と、先生は端正な文字で書かれたその名前を指差す。  「佐藤さん。明日でも大丈夫なので、これを向坂さんに届けてもらえませんか?」    どうして私がそんな面倒くさいことを頼まれなければならないの。  内心では悪態をつきながら、やはり気の弱い私は「分かりました。届けておきますね」と愛想笑いを浮かべることしかできない。  面倒な頼まれ事を引き受けてしまったという鉛のように重たい気持ちは、自宅の最寄り駅に向かう電車に揺られているうちに、そういえばこのノートの中には何が書いてあるんだろうという興味に取って代わった。   そして、ある可能性に思い至った時、足が震えた。  もしかするとこのノートは――詩織が創作するために使っているノートなのではないか。だとすればこの中には、才能ある彼女から湧き出た素晴らしいアイディアが眠っている。  『だ、だけど、勝手に人のノートの中身を見るのは良くないんじゃないかなぁ……』と主張する良心と、『そうはいっても、図書室に忘れていった詩織のせいなんだから良いじゃん!』とノートを開くようにそそのかす悪魔の声がせめぎ合った。  嫌に心臓を高鳴らせながら自宅に辿り着き、真っ先に二階の自分の部屋に駆けこむ。    そして、一人きりになり、人目から逃れた私は――悪魔の声にそそのかされてしまった。
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