殺されることについて

1/1
前へ
/1ページ
次へ
お腹にドン、と言う感触が伝わった。 その感覚の内側からジワジワと、身体の中のものが滲み出ようと蠢き出すのが分かる。 痛みはない。ただこの時、自分が水の入った袋のようだと感じる。それが人間らしいと感じ、結構気に入っている。 目を前に向ける。僕を刺した男の人。 泣いていた。口を開け、涎が2筋垂れていた。それからゆっくり口を閉じて、横に口角が引っ張られ、歯が見えるほどになると徐々に身体が震え出した。 僕は両手を伸ばして彼の頭を包んだ。 彼は「ふっ」と息を短く吐いて震えを大きくした。僕は両手を自分の方に動かして彼を僕の方に寄せた。 ずぶずぶっとナイフが刺さって行く。 彼の頭が僕の胸に到達した時、彼の動きが止まった。彼は僕の着ている服に自分の眼を押し付けた。そうして小さな呼吸を繰り返した。 僕の服は血と、彼の涙の出来損ないの様なもので濡れていった。 「ありがとうございました」 彼は頭を下げた。 「これでどうにか、生きていけそうです」 彼の目は赤く濁っていたが、その視線は熱く、鋭かった。 「またいつでも来てください」 僕がそう言うと、彼は短く息を1度だけ吐いて、もう1度頭を下げて、入り口から出て行った。 その姿を見て、やっぱりこの人も人間だったな、と思った。 僕は来ていた薄手の白い、今は赤い所の方が多 いシャツと下着をめくってさっき刺された所を確認した。 既に傷は治りかけていた。 シャツと下着はもう使えないので後で捨てようと一箇所にまとめておく。血の付いたものをそのまま出すわけにも行かないので、後で細かく切ってバラバラのタイミングで出そうと思う。万一気になった人がいても、1部分なら「ケガをしたんです」で済む。血液鑑定をされた所で、出てくる血の成分は僕のものだから大丈夫だろう。 そんな事を考えながら、僕は隣の部屋に向かう。 部屋の中にある本棚、テレビ、机。特別特徴のないシンプルさを博士は気に入っていた。 僕は机の前に置いてあるソファに腰掛けた。 少し酸っぱい匂いが下から上がってくる。 僕は仕事の後、その匂いに包まれながら考え事をするのが習慣になっていた。 今日もまた、目を瞑って頭をソファの背に沈ませる。 博士が僕を作って5年程になる。 素体になる人間の身体を何処から調達したのかは知らない。それをどのように使ったのかも知らない。多分聞いていた所で理解出来なかったろうと思う。 とにかく、博士は僕を作った。幾ら傷つけられても回復する、不思議な身体を持った僕を。 1年程、博士に教育を受けた。今いる世界のこと、一般的な常識、倫理観。その中で、僕が作られた理由も知った。 「私は娘を殺されたんだ」 博士は僕を真っ直ぐに見て語った。 「犯人の男は捕まったが、死刑にはならなかった。色々と活動もしたが、どうにもならなかった。だが、そうした生活の中で分かった事もあった」 人を傷つけたい。 そう言った欲望を隠した人間が大量に存在していると言うことだ。 「そんな奴らは死んで仕舞えば良い。だが奴らを全員殺せるような力は、私にはない。だから」 お前を作った、と博士は僕を指差した。 「奴らの大半はその欲望を抑えこんで生きている。だがその中で、欲求が溢れ出てしまう奴がいる。そうした奴が人を傷つける」 そいつらに対するはけ口がいる。 「お前は何度傷つけられても、普通なら死んでしまうような傷であってもすぐに治る。痛覚も無くした。苦しむ事はない」 そう言って博士はほんの少し涙を滲ませた。 「これからお前の事をインターネットを用いて密かに公表する。それをどうしようもない欲求を持った奴らに見つけさせて、お前を傷つけさせる。そうして欲望を晴らさせ、日常生活を送らせる」 その後は、こんな事のために生み出してしまって申し訳ない、と言った博士の言葉が続いたが、僕はそこまでの説明で充分満足していた。人間がこの世界を形作っているのだと既に博士から聞いていた僕は、そんな人間がお互いを傷つける意味が理解出来なかった。 ただそれがどうしようもない事であるなら、それを防げる存在である僕はすごく尊い者なんだと思い、気持ちが昂った。 話を続ける内に身体を縮こまらせて行く博士とは対照的に、僕は無意識のうちに誇らしげに胸を張っていた。 作られて2年目に入ると、本格的に僕の仕事が始まった。 インターネットの事はよく分からなかったが、仕事が始まってからは休みの日の方が少ない程に人はやってきたから、効果は大きかったのだろう。その後は人の噂で、僕の存在は沢山の人に広まっていったらしい。 人の種類は様々だった。 性別、年代、職種など、多種多様な組み合わせを持った人達が、僕を傷つけにやってきた。 僕を傷つける手段もそれぞれが違っていた。 ナイフ、包丁、トンカチ、鎌。皮のグローブをはめて殴ってきた人もいた。対象となる身体の部分は、何となくだけれど首、お腹、局部辺りが多かったように思う。 ある人は笑いながら、ある人は泣きながら僕に向かってきた。だけど帰る時には、 「ありがとうございました」 と頭を下げてくれる人がほとんどだった。 そんな人達を見ていく内に、僕の中に彼らに対する疑問が生まれてきた。 博士は人間の中に、人を傷つけたいと願う者が混ざっているという言い方をしていた。 しかし、その人達にも何か理由があるはずだと思ったのだ。自分でも制御出来ない程の欲望。そのエネルギーに源が無いとは思えなかった。 1度博士にその事を聞いてみた。だが博士は僕の顔を両手で掴み、目を大きくして言った。 「そんな事は考えるな!奴らは私達とは別の存在なんだ。理解する必要はない。むしろそんな奴らを助けてやっているのだから、それ以上に気を遣う必要はないんだ」 僕は博士の方を見ていた。博士の言っている事は分かった。しかし、僕の中の想いは消えなかった。 僕は博士が言う「奴ら」のために存在している。なら、僕が彼らに対して向き合う事は絶対に必要な事ではないだろうか? 博士が去った後も、僕はそこで暫く考えていた。 目を開けた。 僕は大きく息をついて、右を見た。 死んだ博士の身体が、こちらに顔を向けた状態でソファに寝かされている。 「奴ら」を理解するために博士を後ろから刺した時、僕の中には色んな感情が巡っていた。 緊張感や解放感が混ざった複雑な感覚。博士が驚きと苦痛の表情でこちらを振り向いた時、その感覚が心地よく昇華されるのに気づいた。 ああ、これは耐えられない。 倒れた博士を見下ろしながら、僕はやっと気づく事が出来た。 人を傷つける快感。その行動がどれ程自分を苦しめる事になったとしても、その感覚は容易く感情の全てを塗りつぶして行く。 止めなくちゃ、と思った。初めて、「奴ら」の事をちゃんと見れた気がした。 僕は博士の頬に触れた。ザラついた冷たい感触。僕を作ってくれた、尊敬する人の感触。指が痺れ、身体が震える。 この感覚さえ消えなければ、僕はまた大勢の人を救える。 博士、ありがとう。 僕はあなたの意志を継いで、これからも生きていきます。 僕はソファから立ち上がり、今晩の為のシャツを取りに行った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加