447人が本棚に入れています
本棚に追加
***
「で、ようやくこれの話が出来ます」
一通り波澄の大吟醸についてレクチャーを受けた日織に、一斗が小さなガラス製のお猪口が二つ並んだ木製トレイを持って出てくる。
お猪口の底には紺色の蛇の目模様が描かれていて、それが利き酒セットなのだと日織はすぐに分かった。
お猪口は丸い穴の空いた横長の木箱に一つずつキチッとはめられていて、木箱の方には「吟醸」「大吟醸」の札が付いていた。
(一箇所穴が余っているのは何故かしら?)
そんなことを思ってキョトンとする日織に、
「普段羽住酒造の利き酒は二種だけなんだけどね、秋の間だけ〝ひやおろし〟が入って三種になる。そこの穴はそのときに埋まるんだ」
そこまで言ってから「あ、ひやおろしは知ってる?」と問いかけてきた一斗に、日織は「もちろんなのですっ」とうなずいた。
「秋あがり」などとも呼ばれる「ひやおろし」は、冬から春に造った新酒に火入れして蔵内に寝かせておいたものを、秋頃に二度目の火入れをせず「冷や」のまま卸す日本酒のことだ。
時間を置くことで熟成されたひやおろしは、新酒に比べると角のとれた穏やかな香りとまろやかな味わいが特徴だと言われている。
波澄のひやおろしは毎年九月の下旬頃に出回り始め、十月の半ばには売り切れて市場から姿を消すらしい。
今はまだ肌寒い三月。
二月の終わりに出た新酒が店頭に少しだけ残っているけれど、さすがにひやおろしはもうないのだとか。
最初のコメントを投稿しよう!