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汗にまみれた笑顔が天板に浮かぶ。
「澪」
口から名前が漏れた。彼女を失ってから、両手の中にあった湖中の月が、指先の間から零れてゆくのを感じていた。
腰に巻いたエプロンを外して階段を上がる。
「健吾、お風呂に入っちゃいなさいよ」ふと、階下から澪の声が聞こえたような気がして振り返った。だが、当然のことながら彼女はいない。そこには、薄暗い段差が下までのびているだけだった。
健吾は今日に至るまで、澪の死を悲しんで涙を流すことはなかった。
なぜなら、ずっと迷っていることがあるからだ。
前に澪から聞いた非現実的な話。「健吾は二度も死んだのよ」彼女は真顔でそう言った。不思議な男が表われ、それがきっかけで過去の自分とメールで繋がり、彼女は過去を変えた。
果たして本当なのだろうか?葬儀の直後に思い出し、彼はずっと悩んでいた。
やってみようかと、毎晩、同じことを思う。だが、それを試してなにも起こらなかったら、永遠に彼女を失ったと自分に言いきかせなくてはならない。
この二ヶ月間、実行しないことで望みを繋げて来たのだ。だが今夜こそ、彼は実行しようと決意を固めた。なぜなら、澪は嘘をつくような人間ではないし、ましてや妄想壁がある訳でもない。だから、きっとうまくいく。妙な自信が沸いたのだ。
澪と眠っていたダブルベッドに腰を降ろす健吾。充電機からスマホを抜き取った。彼は自分の過去アドに、「アナタは今、幸せですか?」そう書き込んだ。 澪が最初に過去の自分に送ったという言葉だった。
不思議な男の存在はない。常織から考えて、望みは皆無に等しい。彼は送信ボタンの上に両手の親指を重ね合わせた。両目を固く閉じる。「頼む、繋がってくれ!」析りを込めて送信を押した。
「…………」
その様子を柱の影から覗く目尻の下がった垂れ目が一つ。
「やれやれ、短命夫婦め!」
男はそうぼやくと、大きなカマを片手に、黒いマントをひるがえした。
「そろそろ、リストラされるな……俺」
男の咳きが、春一番に吹いた風にかき消される。
桜吹雪が信濃の山波を淡いピンク色に染めた。
泣いて、笑って、人は平凡な毎日を今日も生きて行く。
平凡とは、当たり前のように訪れ、空気のように傍らに存在するものだが、なくした時に初めて気づく、奇跡なのかも知れない。
屋根の上、風車は今日も回り続ける。
澪がこの後、ピンクのスーツの行方について知ることができるのか?できないのか?
ーーそれは、ご想像にお任せしよう。
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