十二

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 汗にまみれた笑顔が天板に浮かぶ。 「澪」 口から名前が漏れた。彼女を失ってから、両手の中にあった湖中の月が、指先の間から零れてゆくのを感じていた。    腰に巻いたエプロンを外して階段を上がる。 「健吾、お風呂に入っちゃいなさいよ」ふと、階下から澪の声が聞こえたような気がして振り返った。だが、当然のことながら彼女はいない。そこには、薄暗い段差が下までのびているだけだった。    健吾は今日に至るまで、澪の死を悲しんで涙を流すことはなかった。  なぜなら、ずっと迷っていることがあるからだ。    前に澪から聞いた非現実的な話。「健吾は二度も死んだのよ」彼女は真顔でそう言った。不思議な男が表われ、それがきっかけで過去の自分とメールで繋がり、彼女は過去を変えた。    果たして本当なのだろうか?葬儀の直後に思い出し、彼はずっと悩んでいた。  やってみようかと、毎晩、同じことを思う。だが、それを試してなにも起こらなかったら、永遠に彼女を失ったと自分に言いきかせなくてはならない。    この二ヶ月間、実行しないことで望みを繋げて来たのだ。だが今夜こそ、彼は実行しようと決意を固めた。なぜなら、澪は嘘をつくような人間ではないし、ましてや妄想壁がある訳でもない。だから、きっとうまくいく。妙な自信が沸いたのだ。    澪と眠っていたダブルベッドに腰を降ろす健吾。充電機からスマホを抜き取った。彼は自分の過去アドに、「アナタは今、幸せですか?」そう書き込んだ。 澪が最初に過去の自分に送ったという言葉だった。    不思議な男の存在はない。常織から考えて、望みは皆無に等しい。彼は送信ボタンの上に両手の親指を重ね合わせた。両目を固く閉じる。「頼む、繋がってくれ!」析りを込めて送信を押した。     「…………」 その様子を柱の影から覗く目尻の下がった垂れ目が一つ。 「やれやれ、短命夫婦め!」 男はそうぼやくと、大きなカマを片手に、黒いマントをひるがえした。 「そろそろ、リストラされるな……俺」 男の咳きが、春一番に吹いた風にかき消される。    桜吹雪が信濃の山波を淡いピンク色に染めた。  泣いて、笑って、人は平凡な毎日を今日も生きて行く。  平凡とは、当たり前のように訪れ、空気のように傍らに存在するものだが、なくした時に初めて気づく、奇跡なのかも知れない。    屋根の上、風車は今日も回り続ける。  澪がこの後、ピンクのスーツの行方について知ることができるのか?できないのか? ーーそれは、ご想像にお任せしよう。                     -end -
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