母の危篤

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 地元の空港に降り立った瞬間、湿った土の香りがした。地面底深くから涌いてくるような、香ばしくて少し苦くて甘いコーヒー豆みたいな匂い。少年時代へと誘われるような感覚に捕らわれる。もうあのときの自分はいない。ここに立つ自分は腐敗臭のする泥人形みたいなものだった。  私が飛行機に乗ったか乗らないかくらいの時分に、すでに母は息を引き取っていたという。遺体は早々と実家へ帰っていると聞いたので、空港からそのままバスに乗り、駅から電車に乗り継いで帰宅した。  納棺は明後日の予定らしく、真っ白い布団の中にふんわりと包み込まれた母は天使のように眠っていた。横たわる彼女は驚くほどにすっきりとした綺麗な顔をしており、ただ眠っているように見える。この世に未練などないような顔をしていたが、たぶん概ねその通りだったと思う。あえて言うなら孫の顔が見れなかったということが心残りと言えるだろうか。  現在私は、結婚予定もなければ恋人もいなかった。三十歳を過ぎても何の焦りもなく、今後も結婚を意識することはないだろう。母は三十三歳で一人っ子の私を産み落とした。父は母より二つ上なので現在六十五歳。  すっきりしていないといえばむしろ父の顔で、妻が亡くなったのだから当然ではあるが、背中を小さく丸め虚ろな瞳で家の中をうろうろと意味もなく歩いていた。  これがあの父だろうか。昔は人に厳しく、妻にも息子にも手を上げることが多かった。時には感情のまま殴ることもあったが、感情のまま手を上げているということに全く気がついておらず、自分がしていることは正義だと信じて疑わない人だったので、それほどの罪悪感は感じていなかったと思う。  父の足音が嫌いだった。玄関のドアを開ける前から耳障りで神経を逆なでするような傲慢な足音。気にしているのかいないのか、母もその音に敏感でドアが開く前から玄関口に座り、にこやかに父を迎え入れた。  私より母が殴られることが多かった。私は主にしつけのためであるからそれほどの反抗心は抱かなかったが、父は母の何をしつけたかったのだろう。理由は何でもないことばかりだった。  「〇〇に余計なことを言っただろ」とか、「灰皿がない」「酒がない」「無駄遣いしてる」とか。その度に母の小さな体は人形のように吹っ飛んで宙を舞った。母の小さな体をここまで本気で殴れるのが不思議でならなかった。バキっという不自然な骨の音とともに母が倒れたときは、さすがに骨が折れたと思ったが幸いそうではなかった。  だがこのときはあの母でさえしばらく父と口を聞かなかった。いつでも明るく元気なおしゃべりがモットーみたいな母だったのに。このときの母を見て、人間は人形とそう変わらない物なのだと気がついた。玩具のような音を立てて簡単に宙を舞い主人を満足させるのだ。  
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