調律師と父

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「お(うち)に掃除機はあるかな?」  調律師はこちらを見て優しく尋ねた。 「あるよ。何に使うの?」  まだ大人に敬語を使う習慣がなかった私は、友達と話すように軽く返事した。さすがに友達とは思っていないが、緊張していたため普段使い慣れない敬語が出てこなかったのかもしれない。 「ピアノの中に溜まったゴミを吸い取るんだよ」 「へー」  色々見たことのない道具を使うわりに、ゴミを吸う道具は普通なんだなと思った。どうせならその掃除機で、私の心臓に溜まり続けるゴミを吸い取ってもらっていれば、もっとまともな大人に成長していたのかもしれない。  いや、違うか。まともな大人になんかなりたくない。もっと塵や埃が溜まりに溜まって私が闇の中に埋もれてしまえばいい。埋もれて埋もれてこの世のどこからも見えなくなってしまえばいい。 「お母さーん、掃除機~!」  洗濯物を干しているか、何か他の家事をしている母を呼んだ。 「ありがとう、ぼく」  調律師はにっこり微笑んだ。色々な家を訪ねているのか、子どもに慣れているようだった。自身にも子どもがいるのかもしれない。  母が掃除機を持ってくると、調律師は母にも丁寧にお礼を言ってさっそく掃除機を使い始めた。中には目で見えるほど大きな塵や埃が溜まっており、掃除機でみるみる綺麗になった。塵がなくなると、ピアノの音の濁りやブレが少なくなったように聞こえたが気のせいだろうか。  調律が終わると母がお茶と茶菓子を出してくれて、ローテーブルを囲み、みなで少し雑談をする。雑談の内容はたいていピアノについてだが、天気の話だったり、ニュースの話だったり何でもない話もする。調律師は営業慣れしており、しゃべりすぎることもなければ、こちらが気を使って話題を出さないといけないほどに無口でもなく、ちょうどいい塩梅で終始にこやかだった。  しかし母は普段よりうんと口数が減った。姿勢よく背筋を伸ばして正座し、艶のある長く黒い髪の毛を右手で耳にかける仕草を何度も繰り返した。髪の毛は全部耳にかかっているのに。  服装もどこにも出かけやしないのに、余所行きの格好で化粧も細部まで行き届いていた。これは客人を招くので理解はできるが、口数が異常に減る理由はよくわからなかった。 「はい。そうですよね……、そうなんですよ……、そうなんですね……あはは」  発する言葉も相づちくらいなもので、質問さえほとんどしていなかったと記憶するが、母は楽しそうに頬をきゅっと上げて笑った。普段なら叱られるようなくだらない質問を私が調律師にしても叱ることはなく、 「この子ったら、あはは」 と機嫌よく、むしろ私に感謝するくらいの勢いでお腹から声を出して笑った。  人前だから叱らないのかと思っていたが、調律師が帰ってからもそのときの行為を注意することはなく、しばらくウキウキした様子で家事をしていた。  そのときはわからなかったが、これは調律師を男性として意識していたせいだと、あるとき気がついた。人を好きになったことのない私が気がつくのだから、もし他の人が一緒にいたらみんなもっと早くにわかったことだろう。  調律師は、不器用で無骨な父とは正反対な性格のようで、背が高く穏やかで人当たりがよく、しつけでも人を殴ったり声を荒げたりするようには見えなかった。  無い物ねだりというやつだな、と思ったがねだるものがあるだけ羨ましく思えた。私には何も欲しいものがない。欲せるならば欲したい。だから母が恋をしていたことにも全く嫌悪感は感じない。家庭とは違う束の間の幸せも母には必要だったのだと思う。これが母と社会を繋ぐ数少ない時間だったかもしれないのだから。
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