調律師と父

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 昨日は萎びれたほうれん草みたいだった父だが、火葬場では凛とした小菊のような涙を流した。小菊は母が大好きで庭に育てていた秋の花の一つだ。その花に負けないくらいその佇まいは美しかった。人はこんなにも気高く泣ける生き物なのだとこのとき初めて知った。  結局私は最後まで一滴の涙さえ流すことはなかった。涙など最初から持ち合わせてはいない。中身の詰まっていない空っぽな骨。ばらばらに飛び散った骨の屑は集まりきれず、川の下流辺りを今もぷかぷか漂っている。ぷかぷか、ぷかぷかと漂い続けいずれ腐れ果て土に還る。還ればまだいいが、本当に還るのだろうか。  一週間の休みをもらっていたので、葬儀が終わってから実家でのんびりと過ごした。特別何かをしたわけではない。母の遺品を片付けるとか、思い出に浸るとかそういうことは一切していない。たまに父と外食したのと、時おりピアノを叩いたくらいで、あとは寝ていた。地元の友達に会うこともなかった。  何でピアノを弾きたくなったのかは自分でもよくわからないが、向こうに帰れば二度と弾くこともない。ピアノを見る機会もほとんどない。そう心のどこかで思ったからなのかもしれない。ふと気がつくとピアノを弾いている自分がいた。ピアノの澄んだ音を体に浴びせれば少しは綺麗になるだろうか。この真っ黒な心臓も、真っ黒な皮も骨も少しは浄化されるだろうか。鼻歌でも口ずさみたい気分になるだろうか。  最終日は父が空港まで車を出してくれた。母が亡くなってどうなるものかと思ったが、父は葬儀が終わればもういつも通りだった。少なくとも萎びれた野菜類でもぺしゃんこの蛙でもない。父は父だった。  車の中でも家の中と一緒でたいした会話はなかったが、恋人の有無を聞かれたり、結婚を急かされたりするようなことはなかった。あまり気にしていないようだった。聞かれたところで恋人はいないし、現在結婚の予定も、今後の結婚の予定もないのだけれど。  空港に着くと車を降りる私に父は言った。 「たまには帰っておいで」 「……うん」  あまりその気はなかったがそう答えた。すると父はもう一度言った。 「また、帰ってきなさい」  自分の返事が聞こえなかったのかと思い、私は振り返って父を見た。父の瞳の中に、薄汚れた私の小さな顔が映り込んでいるのを見て思った。父には私しかいない。私にも父しかいない。 「休みが取れたら帰るよ」  今度はそれなりに本気で答えた。すると父はそれなりに満足したようだった。 「仕事がんばって。体には気をつけて」  そう付け足すと車を出した。    突然、父への申し訳なさで張り裂けそうなほど胸が熱く苦しくなった。心臓を鷲掴みにすると出てきそうな何かを必死になって抑え、黒い心臓の中に閉じ込めた。それを出してはいけない。決して出してはいけない。  父の瞳に映っていたのは薄汚れた私の顔などではなかった。本当は、骨ばって糞みたいに黒くて蛆虫に喰い尽くされそうな私の屍だったが、幸いと言っていいのか彼は気がついていない。息子というオブラートが全てを覆い尽くして隠してしまう。私は骨が飛び出してこないようさらに胸を抑えた。  息子は屍だ。生ける屍だ。今すぐにでも骨になる。大切な息子が、吐いて捨てるほどの塵や埃が溜まった錆びた骨だとは知らないだろう。濁って外れた音しか出せない紛い物。そのうち音も出せなくなる。何の音もしない空っぽな骨だ。  
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