母の危篤

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 それでも母と私が父に愛想をつかさなかったのは、彼が家族への愛情を失ったわけではなかったからだと思う。暴力を振るっていないときであれば、母を見る目は優しく、私ともキャッチボールなどをして遊んでくれた。勉強も教えてくれた。キャッチボールも勉強も全然好きにはならなかったけれど。  母は父のことを「悪いことができない人」とよく言っていた。会社では損な役回りばかりだから家族の前くらいでは体裁を保ちたいのだと。それはわかる気がしたが、暴力を振るわなくても素晴らしい父親、素晴らしい夫が世の中にはたくさん存在するのに、単なる甘えとしか思えない。暴力は何の意味もなく何も生み出さない。  父は単に母に甘えていたのだ。だから父親があまり好きではなかった。嫌いにはなれなかったが、好きにもなれなかった。  遠方の大学に受かって家を出ると、何かから解き放たれたような気がして、薄汚れた(ちり)まみれの都会の空気を愛おしく感じた。胸の中に塵が溜まることで私の心はより強くなり、より安らかになる。希望さえ持てた。  母のことが少し心配だったが、父と母二人は仲が悪いわけではないし、何かあっても母には全てを笑顔で受け入れてくれる寛大さがあった。少なくとも私はそう思っていたが、今となってはそれが寛大さだったのか、単なる我慢だったのか知るすべもない。とにかく私は、母を置いて逃げるように家を出た。  小さいころから母のことは大好きだったので、その母が父を全身で受け止めている姿を見て父への愛情を知った。母がこれだけ愛する父ならば、私が知らないだけで自分が思う以上の魅力があるのだと思う。夫婦のことは息子にも誰にもわからない。  尊大な母の父への愛情を見て育ってきたのに、どうして自分は愛のわからない人間に育ってしまったのだろうか。結婚に何の魅力も感じない。それどころか、女性を愛してこの上ない幸せというものを感じたことがない。そこには不安しかない。私のような心の狭いつまらない男が女性の隣にいていいわけはない。申し訳なさしか生まれてこない。  一生結婚することはないだろう。いや、結婚したいという感情さえ湧かないだろう。
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