母の危篤

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「連絡遅れて悪かったな」  塩をかけられ、すっかり縮んでしまったナメクジみたいな父が、ナメクジみたいな弱々しい声を発した。 「急だったからしょうがない」  母は昨日、くも膜下出血で倒れて救急車で搬送された。もう手のほどこしようがなく早朝に危篤と診断されたらしい。誰が聞いても急だ。 「前兆はあったんだ。病院に行くように言ったんだが、本人が嫌がってな。嫌がっても連れてくんだった」 「どんな前兆?」 「目眩とか頭痛とか……最近時々言ってたんだ」 「そう」 「年齢のせいだって。疲れが溜まってるんだって言われてな」  本人が否定したならどうしようもない。母が病院嫌いなのを知っていたので、父を責める気にはなれなかった。冷たい言い方かもしれないが、寿命に近いものではないかと感じた。六十三歳とまだ若いがしょうがないと思えてしまうのだ。  人は何の前触れもなく逝ってしまう。小学生のころに、同級生の女の子のお父さんが亡くなったし、中学生のときは仲の良かった男友達のお母さんが亡くなった。よく遊びに行ってお世話になったお母さんだったので、突然過ぎて意味もわからないままお葬式に参列したのを思い出す。二人とも病死だったが、例えばこれが交通事故だったらもっと突然だったかもしれない。前兆なんかありっこないのだから。  人は人形より儚い。どうせなら最初から人形として生まれてくればよかったのに。ふと隣の部屋に目を向けた。(ほこり)を被ったアップライトピアノがきらきら光って見える。(ちり)や埃が窓の光を反射しているのだろう。  この家でピアノを弾くのは私だけだ。ピアノを弾けない母が自分の憧れを胸に、六歳から十四歳まで習わせてくれた。しかしそれほどピアノが好きでなかった私は、高校受験の勉強を名目にあっさりやめてしまった。続けて欲しそうな母だったが、勉強のためだと言うと無理強いはしなかった。  私はピアノの前に立つと、部屋にかかる重力を全部集約したのではないかと思えるくらいずっしりと重い蓋をゆっくり持ち上げた。その瞬間、鍵盤から瞬くような光が飛び出してくる気配を感じたが、たぶん気のせいだ。使われていなかったピアノにそんな生気(せいき)があろうはずはない。  ピアノの外側は埃を被っていたが、中の鍵盤は誰も使っていないせいか艶やかで光沢を帯びたままだった。ポーンと一番真ん中のドの音を押さえると、張りもあって十分な抵抗を感じ、「まだやれる」とピアノが語りかけてくるようだった。
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