調律師と父

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調律師と父

 ときどき思い出すことがある。あれが人を好きってことなんじゃないかなと思える記憶。自分のことではない。母のことだった。  ピアノを習い始めてから、年に一度くらい白髪混じりの男性が家にやってきた。正確には、私が会ったことがあるのは三、四回。でも年に一回はお願いしている、と母が言っていた。  初めて会ったのは小学二年生のときで、そのとき母は四十代前半、その男性は四十代半ばから後半に見えた。暑い夏の昼間だったが、彼はシャツにネクタイを締めたスーツ姿で、一泊二日くらいの旅行ができそうなアタッシュケースを手にやってきた。  母がピアノまで案内すると、彼はピアノの蓋を開けて白と黒の鍵盤を叩いたり、ケースから見たことのない特種な道具を取り出したりして何かの作業を始めた。後にそれがピアノの調律をしているのだとわかったのだが、そのときの私は「ちょうりつ」が「調律」であるとは結びつかなかった。  調律師が何かの道具でピアノを分解し始めて面食らった。そもそも組み立てたものだから分解できるのは当たり前だが、ピアノは最初からピアノとして存在していると思っていた私はあまりの出来事にポカンと口を開けたまま、取りつかれたようにその作業に見入った。  アップライトピアノは縦に高い。鍵盤の上側、正面にある大きな板をそのまま取り外すと、中から骨組みのようなものが出てきた。いや、それらはよく見ると一本一本の弦で、まさかピアノの音が弦から出ているなどとは思いもしなかった。ピアノは弦楽器なのだ。  今まで鍵盤が直接何かを叩いて音を出していると思っていた、木琴とか鉄琴みたいな感じで。女性の裸をまじまじと見ているようで少し気恥ずかしかったが、ものすごく興味はあった。いつまでも見ていたかった。  調律師が鍵盤を叩くと、どう繋がっているのかわからないが、変な形の小さな木みたいなものが弦にぶつかってボーンと音を奏でる。馬が蹄で地面を蹴っているみたいに見えて目が離せない。  ドレミファソ……と連続で鍵盤を叩くと、馬が山の麓の険しい坂道をボボボボボンと軽やかに駆け上がるような景色が弦から広がっていく。ドレミファソ、ドレミファソ、ドレミファソ、ソーソーソー……  この細い弦が命綱みたいな危ういものにも見え、弦が傷つけば馬も傷ついて倒れ込んでしまいそうなそういう世界観がこの黒い箱の中に見えた。
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