1人が本棚に入れています
本棚に追加
朝、目が覚めて懐をさぐってから、とんでもない事になったと六平は思った。そこにあるはずの42両が跡形もなく消えていたのだ。
六平は盗人である。だが、42両もの大金を両替商の屋敷から盗み出す計画は盗人を20年以上やっている六平をもってしても一世一代の大仕事だった。それでも、六平はその経験と勘を存分に活用し、おとといの晩、両替商の屋敷に忍び込むと見事42両を盗み出したのだった。
それから家に帰った六平は徹夜の疲れが出て、そのまま一日中寝込んだのだった。ところが、六平が翌朝、目を覚ましてみると確かに盗んだはずの金がどこにもないのである。
「どこかに落としたに違いない。」
六平は青ざめた。しかし、そこは盗人である。六平はすぐに、冷静さを取り戻すと、おとといの晩、屋敷を出てから家に着くまでの足取りを思い返してみた。
「芝の浜だ。芝の浜に42両落とした。」
金を盗み出して、屋敷を出た六平は芝の浜を通ったが、この時、六平は浜辺の流木に腰かけて煙管を飲んだ。大仕事を終え、波の音を聞きながら飲む煙の味は格別なものであった。しかし、それは夜明け前の話、あたりは真っ暗で金を落とした事に気付かなかったとしても不思議ではない。
そう思い当たると、六平は家を飛び出し大急ぎで芝の浜へと向かった。そこには当時と変わらず流木が横たわっていた。六平は血眼になって流木の周りを歩き回り、周辺の砂を必死になって掘り返した。ところがどこにも金は見当たらない。砂を掘り返せば、掘り返すほど、そこに埋まっているのは絶望だけだった。
「あんちゃん、大丈夫かい?」
突如、背後からかけられた声に六平は飛び上がって驚いた。六平はゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、天秤棒を担いだ男が立っていた。
「落とし物かい?」
男は六平に声をかけた。
「ええ、少しばかり金を落としてしまいまして。多分この辺だと思うのですが。」
42両落としたとなど、言えるはずがない。素性のしれない男にそんな大金について話す筋合いはないし、そもそもあの金は盗品である。迂闊な事を言えば命取りになる。六平はさも大した事でない様を装った。
「金かい?そりゃ大変だ。俺も探してやるよ。」
男は気風の良い江戸っ子のしゃべり方をする。
「いえ、そんな。ご迷惑はかけられません。結構です。」
事情が事情なだけにできるだけ他人にはかかわってもらいたくない。六平は男の提案を男の気分を害さないように断った。だが、男は
「江戸っ子は義理と人情の生き物よ。困っている人を見過ごす事はできねえな。」
と、持ち前の気前の良さで六平の言葉を遮ると、すぐに周りの砂を掘り始めた。
六平は困惑したが、この時最も優先すべきは金の発見であると思った。それには一人より二人の方が可能性は上がる。幸い金は財布の中に入れてあるので、もし男が財布を見つけたら中身を見られる前に奪ってしまえばよい。そう考え直した六平は男と二人で金を探す事にした。
それからしばらく朝の海岸で二人は周辺の砂を掘り返し、金を探した。しかし、それでも金は見つからなかった。
地面に這いつくばるように砂を掘っていた男が、徐に立ち上がった。
「なかなか、見つからねえな。だが、俺はそろそろ仕事に向かわなきゃならねえんだ。力になってやれなくて申し訳ない。」
男は天秤棒を担ぎながら、六平に言った。
「いえ、とんでもありません。どうもありがとうございました。ところで、何のお仕事をなさっているのですか。」
男は見るからに行商だが、これだけ手伝ってくれたのだ、ものによっては何かの機会に商品を買ってやらない事もない。そう思った六平は男に尋ねた。
「俺は魚屋だ。だが、実をいうと働くのは今日が久しぶりなんだ。昨日までの俺はろくに仕事もせずに酒におぼれる、どうしようもない男だった。ところが、昨日の晩、この芝の浜で42両を拾う夢を見たんだ。夢の中で俺は舞い上がって、酒を買ってきて気の済むまで飲んだ。だから、今朝目が覚めた時に寝ぼけたままの俺は夢の中の出来事を現実だと思っちまったんだ。それで、仕事に行けとうるさい嬶に『昨日の42両があるんだから仕事に行く必要なんてないじゃないか。』と言ったのさ。そうしたら、嬶は『そんな夢を見るなんて情けない。』って涙を流したんだ。その涙を見て俺ははっとしたね。それで、『俺はこんなんじゃいけない。ちゃんと働こう。』と思ったのさ。だから今日から俺は嬶のためにも真面目に一生懸命働くのさ。」
男は海を眺めながら目を細めて語った。
「おっと、こんな話をしている場合じゃない。じゃあ、俺はもう行くぜ。落とし物は見つからなかったら役所に届けな。あと、これも何かの縁だ。魚が欲しくなったらよろしく頼むぜ。これでも目利きの腕には自信があるのさ。」
男はそう言い残すと、颯爽と浜辺を歩いて行った。
離れていく男の後ろ姿を眺める六平の内心は穏やかではなかった。
「夢の中で42両を拾っただと?42両と言えば俺が落とした額と一緒だ。こんな偶然が起こるとは思えない。あの男がネコババしたのか?ではなぜ、そんな話をわざわざする必要がある?」
六平の疑問は考えてもさっぱり分からなかった。だが、どうしてもあの男が六平の落とした金と無関係だとは思えなかった。
そこで、それから六平はその男について徹底的に調べ上げる事にした。
男は名を勝といった。市場で仕入れた魚を天秤棒に入れ町中を売り歩く行商人である。勝が六平に語った通り、勝は六平に出会う日まではろくに仕事をしていなかったようであるが、その腕は良く、勝を贔屓にしている客も多いようだった。そこに来て、六平に出会った日以降は真面目に働くようになり、客からの評判はさらに良くなっている。だが、当の本人はそれに奢る事もなく、ひたすら真面目に働き、酒を飲んでいる様子もない。子はおらず、妻と二人、借家でつつましく生活していた。とても42両を手にした人間の生活とは思えない。
どうやら勝自身が42両を拾ったのは夢の中の出来事であると信じている事に疑いの余地はなさそうだった。だが、六平が42両を落としたのは現実の出来事である。勝がそれを夢だと思っているのならば、誰かが勝にそれが夢であると信じ込ませた人間がいるはずであると六平は考えた。
六平は妻に狙いを絞った。大概、女は男よりも賢いものである。男であれば大金が手に入ると、調子に乗って散財し、不自然に思った周りの目によって横領が発覚してしまう。だが、女は違う。散財しすぎれば周囲に気付かれる事を予見し、勝にあの金は夢であると信じ込ませた上で、へそくりとして隠し持つという事に思い当たるだろう。
それを妻が貯金として持っているのか、それとも目立たぬ範囲で使っているのかは六平には分からなったが、家のどこかに妻が42両を隠しているのだろうと六平は確信を持った。
そして、ある日六平は勝の家が留守の時を狙い、その42両を盗みに入った。小さな借家に忍び込む事は、六平にとって朝飯前である。六平は慣れた手つきで家中を探し回った。
ところが、それらしき金は全く見つからない。仕方なしに、六平は魚の売り上げと思われる僅かばかりの金を盗んだだけで退散せざるを得なかった。
六平が勝の家から出てきたその時だった。通りの角に天秤棒の端が見えた。六平は慌てて外に飛び出したが、身を隠す事まではできず、盗みに入った家の前でその家の主である勝と鉢合わせをしてしまった。こんな失敗は盗人としてあるまじきことである。何か気の迷いでもあるのだろうかと六平は思った。
だが、勝は六平の不安とは裏腹に
「あれ?あんちゃんはいつぞやの。こんなところで何をしているんだい?」
と、笑顔で六平に話しかけた。六平が勝の家から出てきた事には気付いていないようだった。
「その節はどうもありがとうございました。実はあなたから魚を買おうと思ったのですが、なにせ町中を歩いている魚屋さんですからどこに行けば会えるのか分からなかったのです。ですが、あなたの評判は耳にしておりまして、あなたの家がこちらであると聞いたものですから、こちらにくれば買えると思い、伺った次第なのです。」
六平は咄嗟に嘘をついた。このくらいの嘘を簡単につけないようでは盗人稼業など20年も続けられはしない。
「おお、それは嬉しいね。だが、悪いんだがもうほとんど売れてしまって残りが鯵一尾しかないんだ。申し訳ないけど、これでいいかい?」
勝は天秤棒の蓋を開けると底に残っていた鯵を六平に差し出した。
「ええ、私は家族もなく一人ですからそちらで十分ですよ。」
そんな六平の返答に、勝は安心したように笑った。江戸っ子らしい、からりとした笑顔である。
「そうかい。それは良かった。だけど、安心してくれ。俺の目利きに狂いはないぜ。これだってかなりの上物である事に違いはない。だがそれでも、不味かった時は言ってくれよ。俺は魚屋だ。売れ残りとは言え不味い魚売ったんじゃ、職人の仕事とは言えねえ。それならきっちり金は返すからよ。自分のケツは自分で持つのが俺の流儀なのさ。」
勝の口ぶりは仕事に対する絶対的自信にあふれていた。評判が良いのも頷ける、生粋の仕事人である。
「私はあなたを信頼していますよ。」
六平は本心からそう言うと、魚の代金を勝に支払った。もっとも、その金がついさっき勝の家から盗み出した金である事に、六平は少々の気まずさを感じたのだった。
六平は家に帰ると勝から買った鯵を塩焼きにして食べた。とても売れ残りとは思えないほど、油の良く乗った鯵だった。酒との相性も抜群だった。
結局、六平が落とした42両がどこへ行ったのかは分からなかった。もしかしたら、本当に六平が落とした金と、勝が夢の中で拾ったという金は無関係なのかも知れなかった。
こうなってしまえば、六平としてはもう打つ手もなく、あの42両はそれこそ六平も両替商から盗んだ夢を見たなどと諦める他なかった。ただ、あれが夢であったにせよ現実であったにせよ、そこから考えを改め、真面目に働くようになった勝は本当に立派なものだと六平は思った。
そんな事を考えながら、鯵を食べていると扉を叩く音が聞こえた。
「奉行所である。六平。お主には数々の盗みの嫌疑がかけられておる。もう逃げられはせん。おとなしく出て参れ。」
六平は扉の隙間から外の様子を伺った。扉の前には大勢の岡っ引が立ちふさがっていた。慌てて、裏口に回ったがそちらも同様だった。
この状況を見て、六平はついに年貢の納め時かと観念した。
六平は人生を振り返ってみた。六平も初めは盗みなどしたくはなかった。だが、親を早くに失くした六平にはそれしか生き残る手段がなかった。もちろん、六平にも常に罪悪感は付きまとった。自分が罪人として斬首される悪夢を何度も見た。この状況も悪夢ではないのかと思った。
「悪夢?夢?そうかこれも夢にしてしまおう。酔っぱらって寝ちまおう。」
六平は鯵の隣にあった徳利をつかむと一気に飲み干そうと口元へ近づけた。
その時、目に入った鯵と共に勝の言葉が思い出された。
「自分のケツは自分で持つのが俺の流儀なのさ。」
そうか。これはやはり自分がしてきた事に対する然るべき現実か。俺も自分のケツは自分で持たなきゃならねえ。
六平はそっとその徳利を口元から離すと静かにつぶやいたのだった。
「やめよう。夢になるといけねえ。」
最初のコメントを投稿しよう!