お試し冒頭

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お試し冒頭

 そんな完璧ホテルマンの名は佐倉文明といった。もう四十手前になるこの男は、このホテルに勤めて二十年ほどになり、副支配人というポジションに 就いてからもかなりの年数を経ている。加えてこの仕事ぶり、通常ならとっくに支配人になっていてもおかしくないのだが、本人にその意思がなく、長年副支配人のままである。  だがついに、関西にできる新館の支配人になるのではという話で、本人の知らないところで密かにしばしば話題に上っている。 「副支配人いなくなったら、ここ回るのかなぁ……」 「新しく別の副支配人来るんじゃないの?」 「怖い人とかやな感じの人だったらどうしよう」  現副支配人も仕事には厳しく、怖いときは怖い。自身のクオリティをついアルバイトのスタッフにも求めてしまうところがある。だが指導が適切で、何より仕事面において憧れ尊敬に値する存在なので、厳しくされて不満に思うスタッフはいなかった。  フロントの混雑が落ち着いたのでポジションから外れ、しばらく回っていなかった外回りの巡回へと館外へ出る。  海辺にはもう秋風と言うには冷たすぎる風が吹いていた。プライベートビーチを備えるリゾートホテルにとってこの季節は完全にシーズンオフで閑散期である。それでも、手を変え品を変え、どうにか集客を増やそうと頭をひねる毎日だ。  こんな季節の夜の海、人などまばらであるが、それゆえ逆に巡回が必要だったりする。普通の観光・遊びに来る者などいないこんな時に来ているのは―― 「アヤ!」  その声に、副支配人の体はビクリと跳ねた。このよく通る、弾むような、温かみのある声は、非常に聴き覚えがある。 「やっと巡回来た! ずっと待っとってんで!」  満面の笑みで手を振りながら、テーパードパンツの裾やハイカットのスニーカーに砂が跳ねるのも構わず砂浜を駆けてくる様は、さながら主人を見つけた大型犬のようである。  息を弾ませ、肩を上下させながら、嬉しくて仕方がない笑みを浮かべるこの関西弁の男は、副支配人――アヤと呼ばれた――の恋人、椚田涼司である。三十の大台に乗ったとは思えぬ若々しい容姿、くるくるとよく変わる表情、頭の回転の速さを思わせる会話のテンポや数多の情報の引き出しを持ち合わせ、周りに人が絶えないタイプだ。 「なんでこんなとこに」  もとより明日と明後日は、リョウが住む大阪へアヤが赴きデートの予定だった。なのになぜここに今、リョウがいるのか。 「そらアヤに会いたいからに決まってるやん!」 「会いたいって……明日会えるだろ」  そんな涼司ことリョウはアヤにそう言われると、笑顔から一転、眉尻を下げた。 「そらそうやねんけど、ほら、俺が今日からこっち来たら、一緒におれるの一泊増えるやん?」  大阪に住む、カレンダー通りの勤務のリョウと、中部に住む、世間が休みの時ほど忙しい業種のアヤ。  遠距離交際の上に休みが合わない二人は、数ヶ月に一、二度のペースでしか会えない。とてもとても無駄なことをしているように見えるが、リョウにとってはそんな無駄をしてでも、少しでも二人で過ごす時間を長く取りたい、そんな一心での行動なのであった。 「信じられない……」  普通なら、恋人のこんな行動を、可愛らしい、いじらしいと感じるだろうか。残念ながらアヤは違った。恋人とは四六時中一緒にいて常にべったりしたいリョウに対し、アヤは真逆。たとえ交際相手ができても、一人の時間は大切にしたい。もっというと、一人でいるのが一番落ち着くのだ。今までも、これからも、ずっと一人だろうと思っていた矢先に、こんな恋愛至上主義の乙女脳男子と付き合うことになってしまったため、互いになかなか思うようにいかない。付き合い始めの頃は何度か衝突やすれ違いで破局の危機に瀕したこともあった。だがそれらひとつひとつを二人で一緒に乗り越えるごとに絆が深まっていった。
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