第10章

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第10章

夕方、仕事が終わったらスーパーに寄って食材を買う。 この流れは一人暮らしになっても変わらない。 今日は魚が食べたい。 この時間なら値引きされて安くなっている物がありそうだ。 一人暮らしを始めてから、頭を悩ます事なく買い物ができるようになった。 一人分の食事に悩む要素はない。 ああ疲れた、早く家に帰りたい。 温かいお風呂に入って、軽く食べて、夜は本を読んだり映画を見たり、自分の好きなように過ごす。 家を出てから一年近く経ち、私は自由気ままな生活にすっかり慣れてきていた。 今日仕事が終わった頃に葵から電話をもらって、久しぶりに話をした。 着信があった時、知らない番号だけど葵だ、と直感で感じる。 電話越しに聞く娘の声は、私の知っている葵の声ではないように聞こえた。 それでもママ、と呼びかける声や、会いたいと言ってくれたのを聞いた時、私は泣きそうになった。 手紙を書いた時より、さらに会いたい気持ちが高まる。 次の土曜日に会ってご飯を食べる約束を取り付けたので、私は今からそわそわしていた。 十ヶ月前、家を出た日の事を思い出す。 私はあの家を出る日を自分の中で決めて、準備を進めていた。 全く知らない土地に行くより、生まれ育った地元で一人暮らしをしようと思い、実家からも近い場所に住む事ができたらいいと思っていた。 元々自分の持ち物が少ない方だが、処分できる物をできるだけ捨てて、すぐに運べそうもない物はトランクルームに預けておく。 当日は小さめのキャリーケースひとつで動けるようにするためだ。 箪笥の中も空になった。とっておきたい服って、意外と少ない。 ドレッサーを片付けていると、涼ちゃんにもらったポストカードが出てきた。 二人で見て回った、アート展。 楽しかったな。 あの時、展望台から見た景色を今でも思い出せた。 今はもう、これを見ても辛くない。 懐かしさだけが胸に広がる。 私はカードが折り曲がらないように、小さな箱に入れた。 箱の中には葵が小さい頃にくれた手紙や、葵の写真が入っている。 箱はキャリーケースの一番奥に仕舞う。 使いかけの化粧品や、安物のアクセサリーは全部捨てた。 ドレッサーはもう使わない他の家具と一緒に、家族のいない日にリサイクルショップの出張買取に来てもらって引き渡す。 家を出る当日には、私が使っていたスペースに何もなくなっていた。 ベットの布団は畳んで隅に置く。 新居には新しい物を用意するつもりだった。 私は掛かっていたシーツを取って小さく丸め、袋に入れた。 後で処分する。残されたベットは元々この家にあった物なので、このままにしていく。 明け方の四時前。 私は最後に葵に朝食だけ作り、一人分の朝食が並んだテーブルを眺めた。 このキッチンに立つのはこれが最後。 毎日毎日立ち続け、食事を作り続けた場所。 テーブルを見ると、葵と囲んだ食卓を思い出して涙が出そうになったが、私はこらえてキッチンを後にした。 小さなキャリーケースを抱えてそっと家を出る。 まだ外は暗い時間だったが、ぼんやりと大きな家の輪郭だけ見えた。 この家に来てから十八年。 長かった。今までよく頑張ったな。 そう思うと体中の力が抜けるように感じてきたので、私は足取りを強くして門を抜けた。 多分二度と会う事もない、吉川さんの家もここから見える。 さようなら、お世話になりました。 心の中で別れを言うと、私はもう振り向かずに歩き始めた。 いつも使う駅とは別の、遠い駅まで歩く。 しばらくカプセルホテルや簡易宿泊所を使って、仕事を探そうと思っていた。 まだ明け方で、電車の始発まで時間がある。 この時間は寒い季節、急がなくていいのに私は早足で歩き続けた。 頬が熱くなって動悸も早い。 体が軽い。進む足はどんどん早くなり、次第に駆け足になる。 頬を伝う涙が止まらなくて、視界がぼやけてきた。 一人きりだし、怖い。でも行かないと。 私の体は何かを考える前に勝手に動き出すように、どんどん進み続けて行く。 大きく形を作っていく高揚と焦燥と不安。 入り混じった気持ちを抱えて、明けていく夜から朝に私は駆け抜けて行った。 家を出たその日の夜、泊まる場所を見つけて落ち着いた頃に実家の母から電話が掛かってきた。 「百合、大丈夫?」 母は私が電話に出た途端、そう言った。 夫から電話で事情を聞いたらしい。 「うん。私は元気だし大丈夫。ごめん、びっくりしたでしょ」 私がそう言うと、母は 「びっくりした。どうしてうちに頼ってくれなかったの?今どこにいるの?」 と言った。 母は私が義実家で同居している事をいつも心配していたので、結婚当初から何かあったら帰って来るように私に言っていた。 私は落ち着いたらまた連絡する、と言ってその時は電話を切った。 生活が安定したら、実家に顔を見せに行って安心させないと。 母の心配そうな顔が思い浮かび、そう思う。 数日、カプセルホテルなどを転々としながら仕事を探した。 幸いすぐに見付かって、今もそこで働いている。 全国展開しているカフェのチェーン店で、朝から夕方までのシフトで入れる事になった。 ずっとレストランのホールで働いていたので、馴染みのある仕事が見付かって良かったと思う。 新しく一人で暮らす部屋は、実家からも職場からも近い場所を選んだ。 築年数も経っている古いアパートだが、落ち着ける自分の家だ。 私は自転車か徒歩で毎日仕事に行き、時々実家に顔を出しては母と話をしたり、食事を一緒に食べたりしている。 母は一人でこっちに戻って来た私を責める事なく、たくさん話を聞いてくれた。 私が様子を見に行くと嬉しそうにする。 母も一人暮らしなので、近い場所に部屋を借りる事にして良かったと感じていた。 カフェで働くようになって半年経った頃、カフェの向かい側に新しいコンビニがオープンした。 数カ月前から元々空き地だった所に、何か作っているな、と思っていたらあっという間にコンビニが出来き上がった。 同じカフェで働く主婦の子が早速行ってみると、新しくて品揃えもいいと言うので、私は仕事に行く前に寄る。 朝早いのでコンビニはまだ混む前の時間で、お客さんは少ない。 新しい店は綺麗で見やすく、買おうとしたおにぎりも確かに種類が多い。 レジにおにぎり二つとお茶を持って、お金を払いに行く。 「いらっしゃいませ」 レジの男性がバーコードを読み込む。慣れた仕草で商品を袋に詰めると、丁寧に台の端に置いた。 見覚えのある手元、うつむいた顔。 あれ?もしかして。 「店長」 私は思わず呼びかけた。 「はい」 向こうも不思議な顔をして返事をする。 私が誰か分からないみたいだ。 ふと名札を見ると、名字の上に『店長』と書かれている。 ここでも店長なんだ。 私は思わず笑って、 「ごめんなさい、お久しぶりです」 と言って、自分の名前とレストランの店名を言った。 店長はあっ、と思い出した感じで私の名前を呼び、少し気まずそうに挨拶した。 最後に会った時のくたびれた様子を思い出す。 今は顔色も良く、身なりも小綺麗でさっぱりしている。 少し体重が増えたのか、貫禄もあって元気そうだ。 私は懐かしくなって、あれからどうしていたのか、彼に話を聞いた。 「レストランを辞めてから実家に戻ったんです。しばらくは仕事してなかったんですけど、うちの兄貴が見兼ねてコンビニ業界に誘ってくれて。それからずっとコンビニで働いています。いつまでも無職なわけにいかないですからね」 五年前に職場結婚して、今は二人の子供がいるという。 二人目は先月産まれたばかりで、女の子らしい。 今一番大変な時期だと話してはいるが、子供の顔を思い浮かべているのか終始口元がほころんでいる。 荒んだ毎日から飛び立っていき、安住の地を見つけた店長。 私が「良かったですね」と言うと、彼はぺこりと頭を下げた。 「中森さんは?こっちに引っ越されたんですか?」 店長に聞かれて、私はうなずいた。 「元々ここが地元なんです、私。実家から近いから何かと安心だし、今は一人で部屋を借りて住んでいるんです」 私がそう答えると、店長は色々と察したようで「そうなんですね」と言った。 地元に帰ってきて、友達や知り合いに会っても、私は今の暮らしを隠さず話している。 やっと手に入れる事ができた、自分で選んだ暮らしや仕事や住む場所。 あれこれ言う人がいても気にならなかった。 「新しくて綺麗な店ですね。広くて品揃えもいいし」 私がそう言うと、店長も店を見渡して 「ええ。これから頑張って売上取らないと。コンビニはライバルが多いですからね」 と言って笑う。 店長は店の入り口辺りを見て、思い出したように言った。 「そういえば先週もここで、あのレストランで働いてた男の子に会いましたよ、えーと・・」 彼は自分のこめかみを突っつきながら、涼ちゃんの名前を口にした。 私は動揺を勘付かれないように、落ち着いた素振りで 「へぇー、そうなんですか?」 と言った。 地元に帰ったら会うかもしれない。 それは家を出る前に覚悟していた事だ。 まさか今日ここで、店長の口から聞くとは思ってもみなかったけど。 「夕方の五時頃かな?ここの近くの不動産屋で働いてるらしいです。立派な社会人になっちゃってて、最初誰か分からなかったな」 店長の言葉を聞きながら、私は今の涼ちゃんをイメージできなかった。 私は今、涼ちゃんに会いたいだろうか。 分からない。 あの街から出た私は、涼ちゃんと会っていた日々が遠い昔のようで懐かしい。 今はそんな気持ちしか湧いてこなかった。 もう仕事に行かないといけない。 「私、すぐそこのカフェで働いてるんです。よかったらそのうち来てください」 そう言うと、店長は嬉しそうにうなずいてレジに戻った。 土曜日。 仕事の休みを取った私は、葵と会うために電車に乗る。 待ち合わせは葵の通う高校の近くにある、イタリアン料理の店だ。 この店を選んだのは葵だ。 値段も手頃でデザートや軽食も充実しているので、学生達がよく利用するらしい。 私は中に入って店内を見回すと、すぐに葵を見付けた。 葵も私に気付いて、手を振った。 「久しぶり」 私はそう言って、葵と向かい合って座る。 高校に入ってから、ますます大人びてきた。 軽く化粧をしていて、つやつやに塗った唇が若くて綺麗な肌に似合う。 滑らかな肌が目立つ、ざっくりしたトップスを着ているので私は心配になる。 帰り道に、変な人に狙われやしないだろうか。 「ママ、何食べる?」 私がそんな心配をしてるとも知らず、葵は手慣れた様子でメニューを開いて見せた。 何品か頼んで二人でシェアして食べようと言う事になり、メニューを決める。 久しぶりの娘との食事。何を話そう。 葵は落ち着かない私と目が合うと笑った。 元気そうだ、良かった。 運ばれてきたメニューを食べながら、最近の様子を聞いた。 学校は楽しいみたいだ。 部活には入っておらず、帰り道に友達と寄り道して遊んだりもしているらしい。 話を聞いていると、私が高校生だった頃と変わらない。 人数が多い学校なので、友達も増えて賑やかな毎日を送っているようだ。 元々人見知りしない葵なので、人と仲良くなるのが早いのだろう。 「家の中はどう?ちゃんとご飯食べてる?」 私は一番心配していた事を聞く。 「うん。自分の分作るくらいだから、なんとかやってるよ」 葵はこともなげに言った。自分でスーパーに行って買い物をして、夜はほとんど自分で作った物を食べてるようだ。 その他の家事も一通りできているはずだろう。 掃除や洗濯は、中学の頃から少しずつ教えていたので大丈夫だと分かっていた。 料理も覚えたらこの先、一人暮らしをする事になっても安心だ。 「ママは?どんな生活?」 葵に聞かれて、私は仕事の話や今住んでいる部屋の話をした。 カフェで働いている事、葵にとってはおばあちゃんの家の近くに部屋を借りて住んでいる事を話す。母と葵は一年に数回会うだけだったが、家には何回も行っているので場所は知っているはずだ。 「遊びに行ってもいい?」 葵がそう言うので、私は嬉しくなってうなずいた。 「うん、何なら泊まりにおいで」 葵は春休みになったら行こうかな、と言う。 店内は若い子が多くて賑やかだ。土曜日なので家族連れも多い。 向かいの席に座る、家族連れの中の四歳くらいの女の子を見て、小さな葵を思い出す。 懐かしくて少し寂しい。 もう会えない、小さな葵。 こんな風景を見る時、私は必ずと言っていいほど昔を思い出す。 「ねぇ、葵。私が家を出た事、どう思ってるの?」 今聞かなければ、この先聞く機会がないという気がして、思い切って聞いてみた。 「うーん、こう思ってる、ってひと言では言えない」 葵はパスタをフォークにくるくる巻きながら言う。 「いなくなった日の朝は、何で私には話してくれなかったの?とか思ったりした。学校にいる間は楽しくても、家に帰ったら暗い部屋が待ってる。ママがいなくなった家って、なんて言うか・・寒くて冷たい。ねぇ、ママ」 葵はひと口水を飲んで、コップを置く。 「私が産まれてなかったら、もっと早くに家を出てた?」 葵は聞きにくそうに目を伏せて言う。 そんなふうに思わせてしまったら、葵に申し訳ない。 何度も頭をよぎった、家を出る時も、出てからも。 私は正直に言った。 「分からない。でももし、どこかに葵のいない人生があったなら」 ああ、泣いたら駄目だ。 でも葵がいなかったらなんて。 頭をかすめるだけで涙が出る。 「そんなの、私の人生じゃない」 葵はバックからハンカチを出すと、私に差し出す。 頬を拭うと、いつも使っている柔軟剤の匂いがした。 私が使っていた物を、メーカーを変えずに使っているようだ。 なぜかそんな事に安心感を覚える。 葵はハンカチをバックにしまうと、 「冷めちゃうから食べよう、ね?」 そう言って、残りのパスタを美味しそうに頬張る。 私は子供みたいにうなずいて、目の前の料理に手を付けた。 食事を食べ終えたら、葵は約束があるというので駅まで一緒に歩く。 「また連絡する。時々ご飯食べに行こうよ」 葵にそう言われて、私はうなずいた。 電話番号以外にも、アプリのIDやアドレスを交換して連絡を取りやすくした。 駅の改札から一人の男の子が歩いてくる。 葵は手を上げて自分の居場所を合図した。 あれ、見た事ある顔。 吉川さんのところの双子の、男の子の方だ。 「約束って、あの子と?」 そう聞くと、葵は恥ずかしそうにうなずいた。 「最近二人で会うようになったんだ。学校でのクラスは別々だけどね」 私は葵を見た。 さっきトイレから戻って来ないと思っていたら、丁寧にメイクを直していたようだ。 可愛い。 こちらに駆け寄って来た吉川くんは私に挨拶すると、葵と一緒に街中に歩いて行った。 ふと振り返ると、二人が手を恋人繋ぎにしているのが見える。 二人から漂う、若くてあどけない恋の雰囲気。 葵にも彼氏ができた。 ああ、寂しい。 私はしんみりしながら帰り道を歩いた。 今日も朝から仕事に行く。 タイムカードを押して、制服に着替えて、手を綺麗に洗う。 自転車で来たので、鏡で髪の乱れがないかチェックして店内に向かった。 午前中は一番忙しくて、お昼前には少し落ち着く。 しばらくするとランチを食べに来るお客さんが来て、また少し忙しい。 午後二時を過ぎた頃には余裕ができるので、スタッフは交代で休憩に行く。 私は二時半に休憩に入り、持ってきた弁当のおかずと、スタッフは自由に食べていいという厨房のパンをもらってお昼ご飯を済ませる。 ひと息ついて気力を取り戻した私が休憩から戻ると、厨房から声が掛かった。 「すみません、それ二番テーブルにお願いします」 厨房とホールの境目にある受け渡し場所に、トレーに載ったアイスコーヒーが二つあったので持って行く。 「お待たせしました」 スーツを着たサラリーマンが二人いる席にアイスコーヒーを置く。 二人とも俯いて書類を見ながら、何やら仕事の話をしているようだ。 「あれ?そっちはホット頼んでなかったっけ?」 一人がそう言うので、私は慌てて 「申し訳ありません」 と言い、下げようとした。 注文をとった子が間違えたらしい。 時々ある事だ。 「いや、僕はアイスでもいいですよ」 ホットを頼んだはずの男性が、コップを持ちながら言う。 下げようとした私の手と当たり、跳ねたコーヒーが彼のシャツに数滴ついた。 「ごめんなさい」 そう言って顔を上げると、彼と目が合った。 涼ちゃん。 私は一瞬、呼吸が止まる。 「久しぶり」 涼ちゃんはそう言って、恥ずかしそうに笑う。 私は驚き過ぎて何も言えなかった。 コンビニの店長が言った通り、スーツを着た立派な大人になっている。 店長は誰だか分からなかった、と言っていたが、私を見つめる優しい目は、間違いなく涼ちゃんだ。 「そこのコンビニで・・」 二人同時に同じ事を口にして、同時に黙る。 目が合うと、二人とも笑った。 懐かしい、温かい空気。 お互い仕事中という事もあり、あまり話はせずにその場を離れた。 しばらくホール仕事をしながらも、涼ちゃんがまだテーブルにいるのが視界に入る。 それでも私は落ち着いて仕事をこなす事が出来た。 涼ちゃん。 今会っても、何を話せばいいのか分からない。 さっきシャツに付いてしまったコーヒーの染みを見ると思い出す。 最後に部屋に行った時、涼ちゃんのTシャツを借りて、それから自分のシャツはどうしたんだっけ。 きっと空っぽになった涼ちゃんの部屋と一緒に、なくなってしまったに違いない。 やがて涼ちゃん達は席を立ち、帰る支度を始めた。 お会計の後、急いで帰る様子がないのでそっと声を掛ける。 「シャツ、染みが付いてしまって、ごめんなさい」 私が言うと、彼は首を振った。 やっと私が聞き取れるくらいの、小さな声で呟く。 「これで、おあいこでしょ」 確かにそう聞こえた。 あの日を覚えている。 そう思うと早くなる鼓動が止められずに、私はそのまま店を出る二人を見送った。
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