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最終章
父の会社で働き始めて、十二年経つ。
僕は今年三十五歳になった。
大学を出てから地元に戻り、就活することなく父の会社に入る。
友達は羨ましがったが、僕はこれで良かったのかと考えてしまう時期もあった。
地元に戻ってからもしばらく、大学に通っていた頃の生活を思い出して、胸が締め付けられるような気持ちになる日がある。
毎日忙しく過ごして、空っぽの時間を作らないようにしていた。
今は仕事も楽しいし、これで良かったと思っている。
三年前から僕は一つの不動産仲介する店舗を任されるようになり、仕事も順調だ。
今日も店舗の奥にある自分のデスクに座って、仕事を始める。
大学を卒業した後の最初の春。
入社式を終えて次の日から仕事を始まり、僕は先輩と一緒に仕事を教わりながら外回りにも行くようになった。
資格を取るために勉強も始めて、毎日忙しい。
僕は仕事に慣れる為に必死で、あっという間に毎日が過ぎていく。
社会人になって二年経った頃、僕は仕事にも慣れてきて、楽しさも実感できるようになってきていた。
ある日、一戸建ての物件を探しているお客さんと一緒に、あちこち見て回る予定が入った。
僕は先輩と一緒に同行する為、店舗でご来店を待つ。
物件を探しているのは新婚のご夫婦という事で、今日は旦那さんと奥さんが来るようだ。
午前中に店舗の駐車場から、二人揃って歩いて来るのが見えた。
店内に入って来たご夫婦の奥さんと僕は、目が合ってお互いに驚く。
高校生の頃に付き合っていた、彼女だった。
「いらっしゃいませ」
先輩の声が隣で聞こえて、僕も慌てて声を合わせる。
今日一緒に見に行く物件の確認をする為に、カウンターの向こうの椅子に掛けてもらう。
「お知り合い?」
旦那さんは僕と彼女を見ながら聞いた。
柔らかな口調で話す、優しそうな人だ。
彼女と歳が結構離れているように見える。
「ええ、高校の時の同級生です」
僕はそう答えて彼女を見た。
彼女も落ち着いた顔で僕に笑いかけ、気まずい雰囲気はなかったので僕は安心する。
見た目はあまり変わらないが、高校生の頃より大人びた雰囲気になっていた。
元々痩せている方だが、やけにゆったりとしたワンピースを着ている。
お腹に子供がいるのかもしれない。
「奥さん、体調はどうですか?」
以前から担当していた先輩がそう聞いたので、やっぱりそうなんだ、と思う。
「ええ、順調です。検診に行っても、毎回問題ないようで」
彼女は穏やかに言った。
建て売りで一戸建ての購入を考えているそうで、候補の物件を一緒に見に行く。
僕は先輩と社用車で、彼女と旦那さんは自分の車で行くというので別々に現地集合という事になった。
旦那さんは彼女が車に乗る時に助手席のドアを開け、彼女が乗ったのを確認すると自分は運転席に回った。
物腰柔らかくて、紳士な旦那さん。
彼女はいい人を見つけて幸せそうだ。
会社の赤いロゴが入った社用車に乗り、現地に向かう。
「奥さんと十五歳離れてるらしいぞ。結構な歳の差だよなぁ」
先輩は運転しながら、助手席の僕に話し掛ける。
「そうですね。最近多いですね、歳の差婚」
僕はテレビのワイドショーを思い出して言う。
芸能人の歳の差婚が最近、何件か続けてあったからだ。
「なぁ、元カノだろ」
先輩が直球で聞くので、僕は笑った。
「はい。やっぱりそういうのって、分かっちゃうもんですか?」
「俺は分かるよ、空気感とかで。向こうの旦那さんはどうかな。まぁでも分かったとしても、結婚して子供も産まれるんだし、気にしないと思うけどな」
「そうですかね」
僕は高校生の彼女を思い出す。
教室で楽しそうにみんなと笑って、場を和ませている彼女。
近くの席になった時、授業中は熱心に前を見てノートにあれこれ書き込む姿。
二人で何度も歩いた帰り道。
結婚したなら、何度か行った彼女の部屋はもう誰も使っていないのかもしれない。
懐かしいな。
「高校生なら、制服同士で・・やらしー」
先輩が茶化す。僕は「いや、そこは勘弁して下さい」と笑って言った。
この直後に顔を合せるのに、恥ずかしくなる。
物件は二階建てで、どちらかといえばこじんまりとした家だ。
最近は広くて大きい家より、こっちが人気らしい。
土地に広さがあれば、平屋も考える人が多いみたいだ。手入れや管理を考えると合理的だと思う。
「二階は子供部屋に使われる方が多いと思いますが、こちらですと一部屋を区切って使う事もできます」
先輩が内見しながら説明する。
「うーん、僕の年齢を考えると、一人っ子になる可能性が高いですね。今のところは」
旦那さんはそう言ったが、彼女は何も言わなかった。
バスルームやキッチン周りも、四人で見ながら歩く。
キッチンは女性にとっては重要なポイントなので、彼女は時間を掛けてあちこち見ていた。
引き出しを開けたり、備え付けの棚の高さを確認している。
シンクや調理台の高さが丁度いいと言って、気に入ったようだ。
「ここは庭が広めですね」
旦那さんはキッチンの窓から外を眺めて言った。
「はい、こちらの物件は候補の中で一番広い庭が付いています」
先輩は資料を見ながら答えた。
「庭、見に行ってもいい?」
旦那さんがそう言うと、
「うん、私はもう少しキッチンとバスルーム見てる」
と彼女が答えたので、旦那さんは先輩と庭の方に出て行った。
「どう思う?」
二人きりになると、彼女は僕に聞いた。
「日当たりもいいし、おすすめの物件です」
僕が答えると、彼女は笑った。
「やめてよ。何でそんなに他人行儀なの」
僕は気が抜けるのを感じて、一緒になって笑うと言った。
「久しぶりだね。こんなふうに会うなんて思ってなかったな」
「うん、あれ?大学は県外行ったんだよね。卒業して帰ってきたの?」
「そう。自分では就活しないで、父親の会社で働いてるんだ」
「ああ、そっか。でも地元にいるんだから、知ってる人間に会うのは別に珍しくないかもね。高校の同級生で偶然会う人、結構いるかも」
僕達は共通のクラスメイトの近況を知っている限り話し、懐かしいと言い合った。
「春瀬くん、結婚は?」
クラスメイトが結婚したらしいという話の流れで、彼女から聞かれる。
「いや、してない。付き合っている彼女もいないし」
僕は答える。
まだ社会人になって短いし、結婚なんてまだまだ先だと思っていた。
「そっか」
彼女は窓から外を眺めた。
旦那さんは庭の植木を見て、先輩と何か話している。
「旦那、歳離れてるから驚いたでしょ」
彼女が言う。
「うん、最近は歳の差婚多いね。優しそうな旦那さん。いい人見付けたね」
僕はそう言って彼女の方を見たが、少し表情が曇っていた。
あれ、何かまずい事言ったかな?
僕はそう思う。
しばらくの沈黙の後、彼女は言った。
「奪ったの、私」
「奪った?」
「うん、一般的に言う奪略婚。向こうは結婚してたけど奥さんが子供ができなくて、夫婦関係にも響いてたみたい。不倫相手の私が妊娠したから、彼は離婚して私と再婚」
僕は驚いて何も言えなかった。
黙る僕を見て、彼女は悲しそうに笑う。
「軽蔑するでしょ」
そう言われたので、僕は首を振った。
「事情も何も知らないから、軽蔑しようがないよ。僕が知っているのは高校生の頃の君と、今ここで見てる、幸せそうな君と旦那さんだけだ」
「ふふ。春瀬くんらしい事言うね」
彼女はそう言うと僕の近くに来た。
「怖いの」
小さな声で言う。
「今、旦那と赤ちゃんと新しい家が全部私のものになろうとしてる。なのに幸せだって言い切れないよ。前の奥さんはショックで実家に帰って引きこもってるんだって。私の幸せって他人の不幸の上に成り立ってるみたい」
そう言う彼女を見ると、みるみる涙目になるので僕は慌ててハンカチを出した。
「ありがとう」
彼女は涙を拭いてうつむく。
うつむく彼女を見ていたら、初めてキスした時を思い出して僕は少し切なくなった。
奪ったというのは彼女の主観で、実際はどうか分からない。
彼女がいなくても、旦那さんは元奥さんと離婚していたかもしれないけれど、周りから見たら奪略婚と言われる状況になってしまうのは否めない。
誰が悪いとも決められなくて、僕は慰めの言葉も見付からなかった。
「今は産まれてくる赤ちゃんの事、一番に考えて。体大事にしないと」
僕が言うと、彼女は「そうだね」と言ってようやく微笑んだ。
既婚者との恋愛を彼女も経験しているとは意外だった。
旦那さんと、好きな人と一緒になれたとしても、どこか辛い思いが残る。
誰も傷付かない世界なんて何処にもないのかもしれない。
物件は他の候補を見て検討するとの話になり、今日は現地解散する事になった。
彼女はここに来た時と同じようにに穏やかな顔で、旦那さんが運転する車に乗って帰って行った。
僕と目が合うと優しく笑ってお辞儀をする。
二人を見送った後、先輩と僕も車に乗って店舗に戻る。
「元カノと何か話せた?」
帰り道の車の中で、先輩が聞く。
「はい、同級生の近況とか、いろいろと」
僕は泣いてしまった彼女を思い出して、少し心配になった。
「あの旦那さんなら安心だな。赤ん坊も予定日まで少しだし。彼女、幸せなんじゃないかな」
「そうですね」
子供が産まれたら、また何か変わるかもしれない。
「よし、何かお昼食って帰るか」
僕がセンチメンタルになってると思った先輩が、そう言ってラーメン屋に向かう。
お昼を奢ってもらって、僕は昼からも元気に仕事をこなした。
何年か経ってから、その後に二人が購入した家の近くで仕事があり、日中家の前を通る機会があった。
車で通りかかると、庭で彼女と小さな男の子が遊んでいるのが見える。
小さな足が緑の芝生の上で元気良く跳ねていた。
天気のいい日で、男の子が飛ばしているらしいシャボン玉が、ふわりと舞う。
植木は旦那さんが増やしたのか、売り出していた頃より数が多くなっている。
増えた植木の陰で彼女の顔は見えなかったが、男の子が母親を見上げる表情を見ると、彼女がどんな顔をしているかまで分かるような気がした。
幸せになってるといいな。
僕は空中で弾けていくシャボン玉を見て、そう思った。
三年前、仕事で店舗を任されるようになってから、僕は実家を出た。
実家にいると母の世話になりがちだし、妹が結婚して家を出たのに合わせて僕も出る事にしたのだ。
通勤を一番に考えて、職場の近くに部屋を借りて一人暮らしをしている。
今日も朝、僕は簡単に朝食を済ませると仕事に向かう。
十二月に入っても、今年は暖冬でまだ雪が降っていない。
通勤や通学には助かるが、スキー場が営業できなかったりで困っていると、朝のニュースで言っていた。
『今夜はクリスマスイブ。ホワイトクリスマスは期待できないようです』
お天気を読むお姉さんが明るく言う。
今日と明日はサンタの帽子を被らされる、お天気お姉さん。
外からの中継は寒いだろうに、彼女は笑顔で原稿を読み続けた。
「おはようございます」
職場に着いて、挨拶しながら自分のデスクに向かう。
開店までにやっておきたい仕事を済ませ、年末年始の休み前にはデスクの上もすっきりできるようにしておく。
年末年始は不動産業は休みだ。実家に帰って、親と過ごしたり友達に会ったりしようと思っている。
やがて開店の時間が過ぎてしばらくすると、二十代くらいの若いカップルが手を繋いで入って来た。
今日初めてのお客さんだ。
「いらっしゃいませ」
僕はデスクから立って出迎える。
スタッフはみんな電話に出たり、他のお客さんの相手で忙しい。
「こちらにどうぞ」
僕はカウンターに出て、お客さんと向かい合って座った。
「今日はどういった物件をお探しですか?」
「はい、とりあえずしばらくは二人で住むことになると思うので、それにあった広さの物件と、二人の職場から近い場所で探しています」
男性の方がはきはきと答える。
女性はうなずきながら、彼の方を見ていた。
ちらりと二人の手元を確認したが、指輪はしていない。
夫婦ではないのかな。
さり気なく見たつもりだったが、僕の目線は女性に気付かれたようだ。
「年が明けたら結婚するんです、私たち」
彼と目を合わせ、嬉しそうに彼女は言った。
幸せそうだ。
「そうでしたか。おめでとうございます」
僕はそう言って、パソコンで丁度いい物件をいくつか検索してから、二人に見てもらう。
「先程伺ったご希望以外に、何かありますか?」
日当たりや階数など、細かい希望もできるだけ聞きながら候補を決める。
「ね、大事な条件忘れてるじゃない」
彼女が彼の腕を掴んで言った。彼も「そうだった」と思い出したように言う。
「お伺いします」
僕は二人に向き直る。
「猫が飼える物件はありますか?」
彼女の言葉に、僕はパソコンを打つ手が一瞬止まる。
「結婚したら飼おうかって話してたんです。難しいでしょうか?」
僕は彼女がすぐ続けた言葉で我に返り、「猫ですね」と言いながら、検索して調べた。
「最近は飼える物件も増えてきたんですよ。先程見て頂いた、こちらの物件が大丈夫のようです。特にここはおすすめです。僕が住みたいくらい」
そう言うと、二人は笑った。
「猫、飼ってらっしゃるんですか?」
彼が僕に聞く。
「いえ、今はまだ。そのうち飼いたいですけどね」
僕はそう言いながら、物件を実際に見に行く段取りを組んだ。
二人で暮らす家を、二人で選びに来る。
羨ましいな。
僕は今一人で住んでいる、職場近くの自分の小さな部屋を思い出して、溜め息をついた。
夕方仕事を終えると、デパートに予約していたシャンパンを取りに行く。
冬のボーナスも入ったし、奮発して良いシャンパンを買った。
手に持った事のない、細長い紙袋を下げて館内を歩く。
しばらくデパートを見て回ると、〈クリスマス限定〉の文字が目に入る。
一粒ずつ並んで入っている箱入りのチョコレートだ。
僕は一箱レジに持って行った。
デパートの中はクリスマス一色だ。
きらきらした赤やゴールドが目立つ飾り付けが、外の寒さに反して温かさを感じさせる。
すれ違う人の表情も、みんな柔らかくて幸せそうだ。
デパートから出て、白い息を吐きながら、少し早足で歩いて行く。
待ち合わせは駅の近くにある、クリスマスツリーのある大きな広場。
辺りは暗くなって、イルミネーションが綺麗に光り始める。
雲ひとつない夜空は星が出ているようだが、イルミネーションの光であまり見えない。
この辺りの喧騒から離れて、静かな場所まで行ったら見えるだろうか。
大きなクリスマスツリーの前に立つ、彼女の後ろ姿が見えた。
暖かそうなコートを着て、ツリーの飾りを見つめている。
真っ赤なリボンの飾りの前で、佇む姿。
綺麗だな。
僕は目が離せない。
「待った?」
肩越しに声を掛けると、彼女は振り向いて優しい顔で首を振る。
今夜はディナーの予約もしていないし、どこかに行く計画も立てていない。
急に決まったデートだ。
初めて二人で過ごすクリスマスイブ。
「僕の部屋に来て」
そう言われた百合さんは、少し恥ずかしそうに頷くと、空いている僕の手に優しく触れた。
二人で並んで歩く街並みは、夢の中みたいに光で満ちている。
僕は百合さんの手を離してはいけない、と強く思いながらゆっくり歩いた。
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