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第2章
百合さんが部屋を出るまで、僕は目を開けない。
僕が眠ってると思っているのか、音を立てないようにそっとベットから出て、服を着ようとしている。
見えないけど分かる。
今日はミントのような色の上下揃った下着だったので、まずそれを身に付けるだろう。
百合さんはいつもショーツから履く。
次にブラジャーを付ける。
手慣れた様子でホックを掛け、胸が綺麗にカップに入るように整える。
下着を付けたら細身のスキニージーンズを履く。
Tシャツを着て、薄手の柔らかそうなグリーンのニットカーディガンを羽織る。
僕は全部見ているかのように、頭の中に思い浮かべる事ができた。
ベットにいる僕に声を掛けて、部屋を出る。
どんな靴を履いてきたかまでは見ていなかったので想像できなかったけど、ヒールの音がしたのでスニーカーではないようだ。
テレビも付いていない、無音の部屋。
外で小学生が数人、話をしながら歩いて行く音が小さく聞こえた。
午後四時過ぎ。下校時間だ。
ベットに入ったまま、さっき僕の隣で眠っていた百合さんを思い出す。
百合さんは眠ってしまっていたが、僕は起きていた。
そんな時、僕は遠慮なく寝顔を眺める。
綺麗に引かれたアイラインと、軽めに塗られたマスカラ。
少し汗をかいたせいか、若干ファンデーションは落ちているようだが、頬はつやつやして見える。
口紅は今日ここに来て、真っ先に塗った意味がなくなった。
目の前にあったのは、何も塗っていない薄いピンク色の唇だ。
口が軽く開いていて、寝息がそこから漏れている。
僕はその唇を時間を掛けて眺めた。
触れたくて仕方ないけど、気持ち良さそうに眠っているので我慢する。
不意に、僕はその唇から漏れてくる静かな寝息を、全部吸い込んでしまいたいような気持ちに駆られる。
百合さんの目も鼻も塞いで、全部口から吸い込んでしまいたい。
そんな事をしたら百合さんが苦しむのは分かり切っているので、イメージが頭の中を通り過ぎていくだけで、僕は何もしない。
そういえば百合さんのノーメイクの顔って、見たことがないな。
何も手を加えていない彼女の顔を、上手くイメージできない。
もしもこの部屋に泊まる事になったら、メイクも落として、僕が見たことのない部屋着にでも着替えて眠るのだろうか。
そんな日はきっと来ないだろう。
僕は大学に通うため、高校を卒業した後に地元を出て一人暮らしをしている。
生まれ故郷の地元は、ここから車で二時間程の距離にある隣の県だ。
大学に入って学校に慣れたら、いずれバイトをしようと思っていた。
周りの同級生達の様子を見ながら、僕は仕事を探していた。
仲良くなった数人が飲食店でバイトしている話を聞き、僕もレストランのバイトの面接を受けて、学校が終わってからディナータイムの時間に働く事になった。
百合さんと出会ったのは、そのバイト先のレストランだ。
昼間のランチタイムは主婦のバイト、夜のディナータイムは学生のバイト、というシフトが多い店。
仕事中は働く時間が別々なので、話す機会はなかった。
僕がバイトに来る頃に、百合さんは仕事を終えて帰る。
しばらくは顔だけは知っているという程度の間柄だった。
年に数回、オーナーが店休日を決めているようで、十一月の初めにあった店休日に職場の飲み会があった。
普段関わることの少ない、昼と夜のスタッフとで親睦を深めましょう、みたいな事を店長が口にしたが、やはり顔馴染みの者同士でテーブルを固めがちになる。
僕は同じ大学に通う数人としばらく話をして、学校の話や、レストランによく来るお客さんの話で盛り上がっていたが、徐々に一人、二人と帰って行き、席に空きが目立ってきた。
主婦の人達も何人か先に帰って、人数が減っている。
テーブルを見ると、学生がいたテーブルの料理はほぼ無くなっているものの、主婦の人達がいたテーブルはまだ残っている皿が目立った。
「料理、食べない?」
主婦の人達にそう声を掛けられ、僕は皿を眺めた。
僕の好きな唐揚げの甘酢漬けがたくさんある。
「いただきます」と言って彼女達の近くに座わった。
「若いねー」
席に残っていた、女性三人が笑う。その中の一人が百合さんだった。
「幾つ?」
「二十一です」
歳を聞かれて、僕は答える。
「そっかー、大学生か。若いなぁ、見て、肌綺麗だよ」
「本当だ」
彼女達はお酒も入っているせいで、少し大きめの声で盛り上がっていた。
僕が唐揚げを食べていると、僕の隣に座っていた女性のスマホに着信があり、彼女は電話をするために部屋を出て行った。
残った女性の一人も、時間だと行って帰るようだ。
僕と百合さんは二人残された。
「私も少しもらおうかな」
百合さんは残っていた料理に少し手を付ける。
「何か飲みます?」
僕はメニューを取って、飲み物のページを開いた。
百合さんはハイボール、僕はモヒートを頼んだ。
「春瀬くんは地元の人?」
百合さんはポテトをつまみながら僕に聞いた。
「いえ、大学に通うためにこっちに来てるんです。駅の近くにあるマンションに、部屋借りて住んでます」
「そう。地元どこ?」
僕が生まれ故郷の場所を告げると、百合さんは
「私と一緒だ」と驚いた。
百合さんは結婚してからこっちに来たらしい。
そこから小中学校も同じであることが分かり、今でも小学校の近くの文房具屋はまだあるのか、とか、地元の美味しいパン屋の話なんかをした。
意外な共通点が見つかり、僕は酔いも手伝っていつもよりお喋りになる。
懐かしい、自分が過ごした地元の空気。
心地良く流れる雰囲気を感じて、僕は百合さんともっと話していたくなった。
電話をしに出ていた女性が戻って来ると、「ごめん、もう帰るわ」と百合さんに声を掛けた。
百合さんも「お疲れ」と答えると、彼女は僕と百合さんを見て忍び笑いをして、
「ごゆっくり」
と言い、帰って行った。
僕は自分が百合さんと話したがっているのを気取られたようで、そっとうつむく。
ハイボールとモヒートが運ばれてきた。
スタッフの人がハイボールを僕の前に、モヒートを百合さんの前に置いたので、二人きりになってから、くすくす笑いあって交換する。
ハイボールで四杯目だという百合さんは、だいぶ酔いが回ったのか時々遠くを見つめるようにぼんやりしていた。
僕より十歳歳上だと言っていたが、実際の年齢より下に見える。
童顔だからかな。
「中森さん。中森さんの夢って、何ですか?」
何でそんな事を聞いたのか、自分でも分からない。
酔っていたせいだろう。
僕がそう言うと、百合さんは不意打ちを食らったように
「へっ?夢?」
と聞き返した。
僕は咄嗟に、質問したことを引っ込めたい気持ちが湧く。
愛だの夢だの語る、面倒くさい奴だと思われなかったか?
そんな思いが一瞬頭をかすめたが、百合さんの横顔を見ると真面目な顔をして考えている。
僕は答えを待つことにした。
「猫。猫飼いたいな」
考えた末、百合さんが出した結論はそれだった。
「猫ですか。今は何で飼えないんですか?」
僕がそう聞くと、
「うち、旦那の実家で同居なんだよね。田舎特有の、大きな家。あの家の広さなら飼えそうだけど、お義母さんが動物嫌いなの」
と百合さんは言った。
どちらかというと、手が届きそうな夢だ。
控え目でささやかな、他人から見たら小さな夢。
その夢が叶う日は来るだろうか。
「可愛い夢ですね」
僕がそう言うと、百合さんは笑ってハイボールを飲み干した。
午後六時から始まった飲み会は九時前に終わり、それぞれ帰り始めた。
電車で帰る百合さんと、駅の近くに住む僕は同じ方向なので一緒に歩く。
その後は飲みすぎたから近くのカフェで少し休む、と言う百合さんを僕が自分の部屋に誘い、完全に酔った勢いでそういう関係になった。
僕には高校生の頃に付き合っていた彼女がいたが、大学に入る前に別れている。
こっちに来てからはずっと一人だった。
僕は寂しかったのだろう。
その日も賑やかな場所から、一人の家に帰りたくなかったのかもしれない。
その飲み会があった日以来、百合さんとバイト先で顔を合わせる事がなくなった。
元々シフトがずれているのだから、不自然なことはない。
以前から、顔を合わせてもすれ違いざまに挨拶だけする程度だったのだから。
合意だったといえ、百合さんは結婚している。
あの夜は一回限りの事で、何なら無かった事にした方がいいだろう。
僕はそう思いつつも、バイト先に来るとまず百合さんを探してしまって、落ち着かなくなる日が続いた。
出勤した日、周りに誰もいないのを確認すると、そっと百合さんのタイムカードを見る。
週に四日程出勤しているが、毎回ほぼ同じ時間に退勤してる。
仕事が終わるとすぐにここを出るのかもしれない。
避けられている?
あんな事があったせいで、そう考えてしまう自分が女々しく思えた。
考え過ぎだ。
百合さんが僕の部屋に来てから二週間程経った頃、僕はバイトに行く前にコンビニに寄った。
眠気覚ましのコーヒーと粒ガムを買う。
レジに並んだ時、百合さんがペットボトルの飲料コーナーからこちらに歩いてくるのが見えた。
仕事帰りのようだ。
僕は気付いてもらえるのを期待して視線を送る。
鼓動が早くなり、顔が熱くなった。
目の周りが熱を帯びて、少し涙ぐむ感覚を味わう。
お互いが二、三メートル近付いた距離で、ようやく百合さんは僕に気付く。
彼女は少し動揺したように、軽く会釈した。
「お次の方、どうぞ」
レジに並びながらぼんやりしていたので、僕はレジを打つ女の子に声を掛けられた。
慌てて財布を出す。
会計中に百合さんを見ると、チョコレートのコーナーで商品を手に取り眺めていた。
明らかに、何を買おうか選んでいるのではない。
横顔に固い拒絶のような雰囲気を感じる。
僕がここから去るのを待っているのだろう。
僕はコンビニを出て、コーヒーを開けた。
いつもはバイト先に着いてから開けるけど、コーヒーを飲んでいれば僕がここにいても、不自然に見えないはずた。
しばらくすると、コンビニから百合さんはペットボトルの紅茶を手に持って出て来た。
「お疲れ様です」
僕が声を掛けると、彼女は少し驚いた顔をしたが、静かに言った。
「どうも。今からバイト?お疲れ様」
僕は何か言わなくちゃ、と気持ちが急くのを感じて、百合さんの持つペットボトルを見つめる。
ほっそりとした白い左手の薬指に、指輪が見えた。
シンプルな何の彫刻もない指輪。
艶消しのデザインなのか、年月のせいなのか、光は帯びていない。
百合さんはコンビニの近くにあった時計台で時間を確認すると、
「じゃあ、仕事頑張って」
と言って歩き出そうとした。
僕は去ろうとする百合さんの肩に反射的に触れる。
「また部屋に来て?」
半ば懇願するような言い方になり、僕は自分の口から出た台詞に驚いてしまう。
口からすでに出てしまった言葉は、飲み込むことはできない。
僕は肩から力が抜けていくのを感じた。
別に格好悪くてもいいや。
相手が年上だからと、甘えているように、情けなく見えてもいい。
とにかく、また二人で会いたい事を伝えたかった。
百合さんは驚いて僕を見つめると、
「やめてよ、こんな所で」
と言い、周りを気にするようにを見回した。
顔をしかめている。
通りには人がたくさん歩いていた。
知り合いにでも見られたり、聞かれたりしたら困るだろう。
僕は何も言えなくなって、手に持ったコーヒーをぼんやり見つめた。
「子供を迎えに行かないといけないから。じゃあね」
百合さんは俯きがちにそう言うと、駅の方に足早に歩いて行った。
僕は胃の辺りが浮くような、何とも言えない気持ちを抱えながら、バイトに向かった。
それから一ヶ月経って、僕はレストランのバイトを辞めた。
百合さんの事が辞めた理由ではない。
居酒屋のバイトが時給がいい、という同級生の話を聞き、そちらに移る事にしたのだ。
レストランを辞めてからしばらく経った頃、僕は学校に行く前に弁当を買おうとして、大学の近くのスーパーに入った。
少し小雨の降る、木曜日の午前十時。
天気のせいもあるのか、スーパーの中は人影もまばらだ。
授業は昼からなので、弁当を買って食べてから行こうと思っていた。
僕はお惣菜売り場にある弁当を選び、レジへと歩いている途中にふと気付く。
百合さんがいる。
片手に店のかごを持って歩いていた。
立ち止まり、野菜売り場で何かを考えるように商品を見つめている。
僕はあの時コンビニで見た固い表情を思い出して、また胃の辺りが浮くような気がしたが、スーパーで見た百合さんは、どこかぼんやりと物憂げに見えた。
ここのスーパーの野菜売り場はなぜかトマトコーナーに力を入れており、売り場の一角に何種類ものトマトが並んでいる。
赤いトマトだけでなく、オレンジ色や黄色のミニトマトもある。
どれも艶が良く、みずみずしい。
百合さんは淡いグレーのコートを着て、少し模様の入ったモノトーンのストールを巻いていた。
ライトの光を受けて艶々とした、真っ赤なトマトが並ぶ一角に佇んでいる。
綺麗だな。
僕はレジに向かう足を止めて立ちすくむ。
目が離せない。
やがて百合さんもレジの方へ向かい、僕がいるのに気が付くとあっ、というような顔をしたが、すぐに会釈して「こんにちは」と言った。
「今から学校なんです」
僕は聞かれもしないのに、自分からそう言う。
「そうか、すぐそこの大学だったね」
百合さんが答えてくれたのでほっとした。
今日は穏やかな顔で僕と話してくれる。
よかった、僕は完全に拒絶されてはいないみたいだ。
百合さんのかごには、さっき野菜売り場で見たトマトが入っていた。
「ここのトマト、美味しいの。普段買い物するスーパーは家の近くなんだけど、時々こっちまで来るんだ」
かごを見つめる僕にそう言った。
がらがらに空いているレジで会計を終えて、何となく二人で出口に向かう。
出口付近には、併設されている小さなパン屋があった。
《期間限定!シナモンロール》
パン屋の前に看板が出ていて、百合さんが立ち止まった。
看板を見て僕は、前の飲み会で百合さんと地元のパン屋の話をしたのを思い出した。
地元のパン屋の名物、シナモンロール。
一日でこれだけの数が売れます、とローカル番組で紹介された事もある。
どれくらい売れるんだっけ?
このスーパーのパン屋より、たくさんの数だろう。
「この店ではどのくらい売れるのかな」
百合さんが呟く。
全く同じ事を考えていたのに驚き、目が合うと二人とも笑った。
シナモンロールを二つ買って、パン屋の中にある小さなイートインコーナーで、コーヒーを買う。
百合さんはミルクティーを買って、二人で一番奥の席に座った。
「バイト、辞めたんだね」
百合さんがシナモンロールをちぎりながら言う。
僕がうなずくと、
「何で?」と聞いた。
「居酒屋でバイトすることにしたんです。時給もいいから」
僕が答えると、彼女は「そう」と小さな声で呟き、ミルクティーを飲んだ。
「中森さんは?今日休みですか?」
僕は前にこっそり見た、百合さんのタイムカードを思い出しながら言った。
仕事ならこの時間はもうレストランにいるはずだ。
「うん、今日は休み。私、夫の扶養に入ってるから働ける時間が決まってるの。子育てしてる間はそうしようって自分で決めてる」
夫。
扶養。
そんなワードを聞くだけで、胸がちくちくした。
イートインコーナーはガラス張りになっていて、小雨の降る通りが良く見えた。
人通りはほとんどない。
「これから買い物ですか?」
僕は聞いた。前に仕事帰りの姿を見た時より、きっちり化粧をしているように見える。
服や化粧品でも買いに行くのかと、何となく思ったのだ。
百合さんはうなずいて、ここから見える通りを眺める。
「家に帰りたくないの」
不意に百合さんが言い、僕はどきりとした。
「どうして?」
僕は何だか不安になって、百合さんの顔を覗き込む。
「居心地悪いの、夫の実家。時々全部捨てて逃げたくなるよ」
彼女は少し眉をひそめて自嘲気味に言った。
猫が飼えない大きな家。
僕は寒々とした広い部屋を思い浮かべる。
「平日休みだと夫も子供も家にいないから、こうやって外で時間潰してるの」
百合さんがそう言ったので、僕は黙ってうなずいた。
いつの間にか小雨は止んで、少し晴れ間が見えてきていた。
窓から見える水溜まりに、陽が当たってきらきら光り始めている。
「連絡先、交換してもいいですか?」
僕は空になったコーヒーカップを持ったまま、思い切って百合さんに聞いた。
今日が駄目なら、もう諦めよう。
僕は緊張のせいか、息をのんで自分の手元を見つめた。
百合さんはすんなり自分のスマホを取り出すと、すぐに僕の方に連絡先を送ってくれた。
僕は足元が浮くような気持ちになって、自分のスマホを眺める。
「さて、服でも買いに行こうかな。暖かいセーターが欲しい」
食べた後のごみを手早く片付けると、百合さんは立ち上がった。
「授業、頑張ってね」
そう言うと、さっき買ったトマトの袋を持って店から出て行く。
僕は椅子に座ったまま見送った。
透明な袋に綺麗に収まった、鮮やかなトマトの赤が目に残る。
一人になった僕は、スマホを握りしめて窓の外を眺めた。
バイト先が同じでなくなった今、百合さんとの繋がりはこのスマホだけ。
そう思うと、目の前にあるスマホを片時も離してはいけないような、落ち着かない気持ちになった。
いつ、どうやって会えるように連絡しようか。
僕はそんな事ばかり考えながら、買った弁当を持って大学に向かった。
それから半年くらい経つ。
今はこうして、百合さんが平日の休みの日に、僕の部屋に来てくれるようになった。
百合さんが来てくれる日は、学校も友達との約束も白紙にする。
僕はベットに入ったまま、テーブルに置きっぱなしになっているピクルスの瓶を眺めた。
色とりどりの、小さな野菜が詰まった瓶。
黒い家具の多い僕の部屋で、鮮やかに浮かびあがる。
まな板に野菜をのせ、包丁で丁寧に切り分けていく百合さんを思い浮かべた。
丁寧に、ひと口大に切られた野菜が、まな板の上を転がる。
彼女は切ったものを優しく掴んで、透明な瓶に詰めていく。
今朝まで百合さんの家にあった瓶は、今ここにある。
「あれ、瓶が出しっぱなし。冷蔵庫に入れなきゃ駄目じゃない」
そう言って、僕は自分の隣に座る百合さんをイメージする。
「まだ食べたいから、置きっぱなしにしてるんだよ。なくなったらまた作ってくれる?」
頭の中の、イメージの百合さんに話しかける。
百合さんは「いいよ」と頷くと、僕にもたれ掛かり、目を閉じて体を預ける。
伏せた長い睫毛は動かない。
よかった、まだここにいる。
イメージの中の百合さんは、まだ帰らないで僕といてくれるみたいだ。
最近前にも増して、頭の中で百合さんと会話する事が増えた。
滅多にしない自炊をして作り終えると、百合さんが「美味しそう」と言って覗き込む。
眠くて起きられない日の朝、ベットの中で一緒に百合さんが「もう少し寝よう」と言って体を寄せる。
頭の中でそんなイメージが湧く時、僕はいつも一人で部屋にいた。
いつか僕の頭はこんな妄想しかできなくなって、現実に戻れなくなってしまうのではないかと時々怖くなる。
そこにいない人に話し掛け続けているようで、自分が病気なのかとさえ思う。
家にいる時以外にも、学校にいてもバイトをしていても、どんな時でも百合さんが僕の隣にいるのを望むようになってしまったら。
涼、お前、やばいんじゃないの。
誰かそう言って笑い飛ばしてくれたら、少し気が楽になるかもしれない。
百合さんが既婚者である事で、僕は誰にもこの関係を話せずにいた。
今日は夕方の六時から居酒屋のバイトだ。
ずっと家にいたから、体はちっとも疲れていない。
さっきカップラーメンを食べたから、お腹も丁度いい具合に膨れている。
好きな人と抱き合って、本能的な欲も満たされて、頭もすっきりしている。
なのに僕は、自分がどこかが空っぽになっている感覚を拭えない。
どことなく不安な気持ちを抱えて、バイトに行くための準備を始めた。
服を着て、乾いた口の中をゆすいで歯を磨く。
さっきまで百合さんといたベットを整え終えると、テーブルにあるピクルスの瓶が見えた。
僕は息をするのが苦しくなって、急いで瓶を冷蔵庫にしまう。
目の前から消えたところで、なかった事になんかならない。
そんな事は嫌というほど分かっているけれど、それでも僕は束の間の安心を得るために、瓶を見えない所に置く。
次はいつ会える?
本当は直ぐにでも連絡したかったけど、我慢してスマホをポケットに入れた。
居酒屋のバイトは忙しくて、仕事中はあれこれ考えなくて済む。
履きなれたスニーカーに足を入れて、僕は玄関の扉を開けた。
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