第3章

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第3章

「まま、おへやに来て」 葵の一言で、私はどきりとした。 一度顔に表れてしまった動揺はすぐに隠せない。 不思議そうな顔をしている葵と目が合う。 部屋に来て。 涼ちゃんにそう言われたあの時、近くにあった時計台を私は思い出す。 よく行くコンビニの近くにある時計台は、あの通りのシンボルのようになっている。 街の中の数あるコンビニで、「時計台のある所」と言えば、この付近の住民なら誰でも分かるくらいだ。 待ち合わせにだって使える。 二階建ての住宅程の高さの、この街の時計台。 青を基調としていて、僅かに赤や黄色が入ったデザインだ。 一時間ごとに時計の下にある扉が開き、ピエロがくるくる回る。 以前葵とコンビニに行った時、ちょうどピエロが出て来たので 「ほら見て。回ってるの、可愛いよ」 と指差して教えると、葵は 「いやだ、怖い」 と言って、私にしがみついた。 私は「そう?」と言って、ピエロを眺める。 白塗りの派手なメイクで口が大きく見える。 にっこりと大きく笑う顔は、確かに何を考えているか分からない印象もあった。 怖いかな? 私はピエロを見ると遊園地にいるような気分になって、あの時計台を可愛いと思っていた。 確かあの時も、ちょうど午後の四時になって扉が開き、いつものようにピエロがくるくる回りながら出て来た。 私が涼ちゃんが口にした台詞に驚き、とっさに拒絶の言葉を口にした時だ。 お互い無言になった空間で、ピエロがくるくる回る。 こんな時にくるくる回って、笑っている。 私はぼんやりピエロを視界に入れたまま、何だか良くない事が始まるような、不安な気持ちになった。 あの時、ピエロを怖いと言って私にしがみついてきた、葵と同じ気持ちだったかもしれない。 「まま、どうしたの」 葵がすぐ私の足元に来て、見上げている。 澄んだ大きな瞳で私を見つめていた。きっと頭の中で今からする遊びの段取りが決まっているのだろう。 期待のこもった目で私を見る。 「ごめん、ごめん。ぼんやりしてた」 私は現実に引き戻される。 葵は私の手を引くと、 「さぁ、おいで」と言って自分の部屋に連れて行く。 最近お気に入りの、お買い物ごっこの相手役をして欲しいみたいだ。 私はだいたいお客さんになる。 プラスチックで出来た硬貨や、手のひらに載るくらいの紙幣を持って、葵店員に迎えられて買い物をする。 「いらっしゃいませ・・えーと、おかいものですか?どうしますか?」 葵はきょろきょろしながら聞いた。 一生懸命接客する姿が可愛い。 私はあと何回こうして遊べるだろうと、少し寂しい気持ちになった。 赤ん坊だった葵も、こうして大人の真似をして遊ぶくらい大きくなっている。 これから何年か先には、今の葵と向き合って遊んだ瞬間を懐かしく思う日がくるのだろう。 私は張り切ってお客さんになり、お買い物ごっこに集中した。 「すみません、パンと林檎を下さい」 「はい、しょうしょう、お待ちください」 葵は小さな白い手で真っ赤な林檎のおもちゃを握りしめて、品物を入れる買い物かごを探し始める。 私はその姿を目に焼き付けたくて、いつもより瞬きが少なくなっていく。 咄嗟に、近付いてきた小さな店員を抱き締めると、 「おかいもの、してよー」と葵が笑った。 初めて職場の飲み会があった日の夜。 あの日涼ちゃんの部屋から出た後、私は急いで電車に乗ると、夜の十時頃家に着いた。 夜のこんな時間に出歩くのも久しぶりだったし、酔った後にあの部屋であった出来事で、すっかり体は疲れている。 家に入ってすぐ寝室を覗くと、葵はぐっすり眠っていた。 すやすやと寝息を立て、両手が出ているので肩が見えていて寒そうだ。 私は掛け布団を葵の首元まで引き上げ、寝室を出た。 「お帰り」 夫は私を見るとそう言って、いつものようにリビングで晩酌をしながらテレビを見ている。 サッカーの試合を見ていた。 「ただいま」 私はそう言って、夕方から寝るまでの葵の様子を夫に聞いた。 「別に。いつも通り飯食って風呂入って寝た。風呂は母さんと入ったよ」 夫はテレビから視線を外さずに答える。 「そう」 私はそう言って、葵が片付け忘れた絵本やおもちゃをまとめて部屋の隅に置いた。 何も変わらない家の中。 いつも通りの夫と葵。 飲み会、どうだった? そんな会話も私と夫にはない。 夫は私がどこで何をしていても、あまり関心がないのだ。 結婚したばかりの頃はそれが寂しくて、聞かれもしないのに自分の話をよくしていたけど、葵が産まれてからそれもなくなった。 この人はどうして私と結婚したんだろう。 結婚して数年経ち、子供も産まれると、私に対する夫の気持ちを確かめたいという思いも、もう起きなかった。 着替えを持って脱衣所に行き、服を脱いでメイクを落とす。 鏡に映る自分の体を見ると、数時間前の事が現実味を増していく。 アイメイクを落としたコットンを見つめて、ため息をついた。 私はあの子と寝てしまった。 思ってもみなかった行ないをした私の体は、他人の体のようにも見える。 酔っていたせいもあって、行為そのものを思い出せても、自分がどんな気持ちだったかまでは、自分でも分からない。 若い頃から外での飲み会は何度もあったけど、こんな事になるのは初めてだ。 彼は二十一歳。 私と十歳も離れている。 大学生だし、付き合っている恋人がいるかもしれない。 何でこんな事になってしまったんだろう。 私はお風呂に浸かりながら、いるかどうかも分からない、涼ちゃんの恋人に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 結局は恋人なんていなかったのだけど。 一回限り、勢いで寝ただけ。 飲み過ぎに気を付けます。 今後、気軽に異性と二人で歩かない。 私の中で、あの日の出来事はそんなふうに徐々に片付き始めていた。 三十路過ぎた大人のやることではない。 あんな事になるくらいなら、飲み会だって早めに帰ればよかったのだ。 しっかりしろ。 自分で自分に言い聞かせる。 なのに時計台のそばで聞いた涼ちゃんの一言で、片付けたはずの気持ちの引き出しが勝手に開けられた。 ぐちゃぐちゃに中身を引っかき回される感覚を味わう。 せっかく片付けたのに。 私は少し苛立ちを感じる。 引き出しの中身を一つずつ、あの子にじっくりと見られてしまう気がする。 自分でも何が入っているか分からないのに。 怖い。 その時はそう思って、逃げるように葵のお迎えに行った。 それからどうして連絡先をすんなり交換したんだろう。 今でも少し不思議に思う。 仕事が休みの平日、私はいつも行かないスーパーで買い物をした。 時間潰しも兼ねて、家から少し遠い場所で買い物をする。 雨のせいで朝から頭がぼんやりして、仕事も休みなので完全に気が緩んでいた。 成り行きで一緒に食べた、甘いシナモンロールが口の中で溶けて、私の頭の中は空っぽになる。 何の音もしない。 あの日の私はそんな感じだった。 しとしと降る小雨と、甘いシナモンロールの香り。 それがなければ、連絡先なんて交換しなかったかもしれない。 きっかけなんて些細なものだ。 会うようになって、徐々に私はこの状況を受け入れ始めた。 何より、連絡をもらった時も、会った時も、涼ちゃんが私を求めているのがひしひしと伝わるのが心地良く、私は単純に嬉しかった。 百合さん、と私を呼ぶ声。 探ろうとする眼差しや、私の頭の中を見ようとするように、私を貪る。 どれだけ貪られても、私は何も失う事なく心地良さだけ感じていた。 今日は朝、葵をこども園に送って行った後、涼ちゃんの部屋に行く予定だ。 駅の近くにあるそのマンションは四階建てで、私は二階にある涼ちゃんの部屋までいつも階段で上がっていく。 私はここの階段が好きだった。 鉄製なので少し足音が大きい気がするが、気になる程ではない。 手すりを支える床から伸びた支柱が、一本一本植物のようなデザインになっている。 蔦が這うような、くるりとした彫刻に触れる。 外国の映画に出てくるような、おしゃれで可愛い階段だ。 ふと、二階より上はどうなっているのだろうという気持ちが湧いてきて、涼ちゃんの部屋を通り過ぎて登ってみることにした。 三階も四階も、ずっと同じ造りになっていて、違うのは見える外の景色くらいだ。 私は四階から見える景色をしばらく眺めた。 特になんてことない、ありふれた街並。 道を歩く人達は、四階にいる私に気付かない。 それが何だか私を開放的な気持ちにさせる。 高い場所は居心地がいい。 気が済んだので階段から降りて行くと、部屋から出て来た涼ちゃんと鉢合わせる。 「どうしたの?」 涼ちゃんは上に何かあるのか、というふうに階段を見上げた。 「ここの上から何か見えるかな、と思って。屋上は入れないんだね」 私が言うと、涼ちゃんは 「そうだよ」と言って、私に部屋に入るよう促した。 部屋に入って扉を閉めた瞬間、吸い込まれるように涼ちゃんに抱き寄せられてキスされる。 「さっき何となくさ、百合さんの足音が通り過ぎた気がした。部屋に入って来てくれないのか、心配になったよ」 涼ちゃんが私を抱き締めたまま言う。 ずっと待っていてくれたのだと思うと、足元から血が上るような感覚が襲ってきて、頭の中がざわつく。 「何言ってるの」 私が笑ってそう言うと、すぐに私をベットに連れて行って、髪をまとめたクリップを外す。 ゆっくりキスしながら、丁寧に服を脱がせ始めた。 部屋に着いてすぐ。 せっかちに思えるけど、私は嫌じゃなかった。 ぼんやりと天井を見つめたまま、力を抜いてされるがままになる。 「上から何が見えた?」 涼ちゃんはタオルで自分の額の汗を拭くと、隣に寝転んで聞いた。 私の髪に触れながら、優しく頭を撫でる。 「あの時計台の屋根が、建物の隙間から見えた」 私はティッシュで自分のお腹の上を綺麗に拭きながら答える。 「へぇー、ここから見えるのか」 涼ちゃんは上まで登った事がないらしい。 「お腹空いたね。後でコンビニ行って何か買ってくるよ」 時計台でコンビニを思い出したように、涼ちゃんが言った。 「ここの建物の階段、好きなの。レトロで可愛いよね」 私がそう言うと、涼ちゃんは 「そうかな」と言って、どんな階段だったか思い出すような顔をした。 毎日見ていると、特に何とも思わないのかもしれない。 くるりと蔦が這うような模様を思い出しながら、私は涼ちゃんの胸を指先でくるくるとなぞる。 「可愛いよ。外国の古い映画に出てくるみたいな」 「古い映画?」 「うん。『レオン』みたいな」 「見た事ないなぁ」 いい映画なのに。 勿体ない。 私はそう思って天井を見つめた。 「今度レンタルで借りてみようかな。一緒に見ようよ」 涼ちゃんがそう言うので、来週ここで一緒に見ようと言う事になった。 あの映画を見るのは久しぶりだ。 それからちょうど一週間後。 先週と同じ時間、私は私の好きな階段を登って彼の部屋へ行く。 映画を見るなら、お酒でも飲みながら見たいな。 本音を言えばそうだが、アルコールの匂いをさせながら葵を迎えに行くわけにもいかないし、昼間から飲むと頭痛がする。 ノンアルコールビールと、おつまみ用のナッツを持って涼ちゃんの部屋に行った。 部屋に入ると、中はカーテンを締め切って薄暗くしてあった。 映画を見るために準備されている。 涼ちゃんは丁寧にレンタルしたケースからディスクを外すと、そっとテレビの下の機械に入れた。 映画館で二人で映画を見れなくても、こういう時間があれば充分だ。   ジャン・レノ演じる殺し屋のレオンが、手際良く仕事をこなす様子から始まり、やがて同じアパートに住むマチルダという少女と顔見知りになる。 階段の手すりの下に座った、ナタリー・ポートマン演じるマチルダが煙草を吸う。 涼ちゃんはここで「このシーンって問題にならないの?」と言う。 そっか。 コンプライアンスに厳しいこの時代では、考えられない場面だ。 マチルダは大人の前では煙草をこっそり隠す。 「このシーンがあるから、テレビではあんまり放送しないのかもね」 私はそう言って、ナッツをつまむ。 『大人になっても、人生ってこんなに辛いの?』 『ああ、辛いさ』 父親の暴力で顔に傷を負ったマチルダがレオンに尋ね、こう答えが返ってくる。 私はこのシーンが大好きだ。 レオンはその場しのぎの慰めなんてしない。 格好いい。 やがてマチルダの家族は、ゲイリー・オールドマン演じる刑事によってみんな殺されてしまう。 悪役の刑事なのに、私は色気に満ち溢れたゲイリー・オールドマンに引き込まれる。 涼ちゃんもすっかり映画に見入っていた。 『弟はまだ四歳よ』 亡くなった弟を思って、マチルダは泣きながらレオンに訴える。 四歳。 葵と同じだ。 私は胸が痛み、マチルダの苦しみを自分の事のように味わう。 涙を流すマチルダの憂い顔や、そこからにじみ出る透明感は、恐ろしいほど美しかった。 私はこの映画を見る度に、彼女に見とれてしまう。 やがてマチルダは弟を殺された復讐の為にレオンに弟子入りし、二人は一緒に暮らしながら絆を深めていく。 『レオン。私、あなたに恋したみたい』 マチルダの告白に、レオンは飲んでいたミルクを吹き出す。 恋か。 私は今まで、振り返れるような恋をした事がない。 人に関心が持てず、自分から友達になろうとか、付き合おうとした事がない。 そんな自分と仲良くしてくれる人達がありがたくて、私は声を掛けてくれるみんなと仲良くしてきた。 いつだったか友達に「百合って、来る者拒まず、だね」と言われた事がある。 その友達は私を褒めていたのだ。 夫ともそうだ。 熱烈に恋して結婚したのか?というと、そうではなかった。 結婚するならこんな人が良さそう。 私を引っ張っていってくれる。 二十四歳だった私は、そうして夫と結婚した。 後悔はしていない。 結婚したから葵も産まれて、私はどちらかといえば幸せな人生を送れているはずだ。 マチルダはレオンにヴァージンを渡したがるが、断られる。 レオンの過去を知って涙するマチルダ。 恋するマチルダは、レオンにせめて自分と同じベットで眠って欲しい、と言う。 私はそんなマチルダの気持ちがいまいち分からない。 でもこうしてこの映画に見入ってしまうのは、恋するマチルダにどこか憧れがあるからだと思う。 やがて二人は警察に囲まれ、追い詰められる。 逃げるためにレオンはマチルダを先に通気口へ行かせ、必ず後で会おうと約束して戦う。 涙で潤むマチルダの瞳は、やっぱり綺麗だ。 このシーンの辺りから、私の隣に座っていた涼ちゃんの気はそぞろになり、映画に見入っている私を後ろから抱き締めると、服を脱がせ始めた。 やがてレオンは自分の身を捧げてまでマチルダの復讐を果たし、マチルダは独りになって学校に戻る事になる。 家族もレオンもいない。 本当に独りだ。 マチルダの学校は大きく開けた土地に建っていて、レトロな佇まいをしている。 草木が多く茂る庭もある。 『ここなら安心よ、レオン』 マチルダは学校の大きな庭に、レオンが大切にしていた植木鉢を植え代えると、そっと呟いた。 画面には大きな庭の木が映し出され、二人が過ごした街並みが遠く見える。 私は涼ちゃんの首に腕を回しながら、肩越しにエンディングを眺めた。 もう涼ちゃんの意識は、完全にテレビ画面から外れている。 「いい映画だったね」 ベッドの中で天井を見つめながら、涼ちゃんが真面目な顔で言うので、私は何だか可笑しくなった。 「最後まで見てなかったじゃないの」 私がそう言うと、 「見てたよ。視界の端で」と、しれっと答える。 「あのシーン良かったな。ほら、『大人なっても人生って辛い?』っていうの」 涼ちゃんはそう言うと、何か考えるように目を閉じた。 私も。 そのシーンが一番好き。 思ったけど言わなかった。 大人になったら人生は辛いのかな。 葵にそう聞かれたら、私は何て答えるだろう。 辛いさ、とは言わない。 辛い事ももちろんあるけど、それだけじゃない。 今こうして好きな映画を見て、満ち足りた気持ちでベットにいる時間、私は幸せだ。 「自分が選んだ人生なら、辛くない」 涼ちゃんがシャワーすると言うので、私は一人で部屋で待つ。 テレビの下からディスクを取り出して、ケースに戻した。 一九九四年のフランス映画。 私は五歳で、涼ちゃんはまだ産まれていない。 葵と歳の変わらない自分と、この世に存在すらしていない涼ちゃんを思うと、遥か昔のような気がした。 涼ちゃんの部屋を出て、帰り道にレンタルしたディスクを返しに行く。 返却ボックスに入れて帰るだけなので、すぐ終わるはずだった。 「あら、こんにちは」 店の出入り口で聞き覚えのある声に振り向くと、ご近所の吉川さんだった。 「こんにちは」 私は愛想笑いを浮かべて挨拶する。 「何か借りに来たの?仕事の帰り?」 吉川さんは私の手元や服装をじろじろ見て尋ねる。 「いえ、仕事帰りに葵の借りたアニメを返しに来ただけなので」 私は店内にあった時計を横目に見ながら言った。 この時間なら、仕事帰りでもおかしくない。 私はそう思ってほっとする。 急いでいる、と言って逃げよう。 私が口を開くより早く、吉川さんが話始めた。 「最近の若い人達は定額サービス?で映画やドラマを見る人が多いんですってね。レンタルで借りる人は少ないかと思ってたわ。うちの孫もネットなんかで毎日動画をずっと見てるらしいのよ。あんまり見せ過ぎないようにって、お嫁さんにも言ってるんだけどね。パソコンやスマホに夢中になるのは、子供に良くないし・・」 ああ、口早なおしゃべりが始まる。 私は愛想笑いを顔に貼り付けたまま黙った。 吉川さんには二人の息子がいるが、二人とも結婚して同じ市内に家を建てて暮らしているらしい。 二人の息子のどちらかに、葵と同じ歳の子供がいると聞いた。 確か四歳になる双子で、男の子と女の子。 近所に住んでいれば、葵とも仲良くなれたかも。 そう思ったが、一度も姿を見た事がなかった。 お盆にも正月にも吉川さんの息子達は帰って来ない、冷たい、などと義母が言っていた事がある。 お嫁さん達の姿も見た事がない。 盆だろうが正月だろうが、吉川さんは今みたいにマシンガントークを繰り広げるのだろう。 みんな帰って来なくて当たり前だ。 「この前、生姜をたくさん頂いて。ありがとうございました」 私は吉川さんが息をついた瞬間に口を挟む。 「そんな、いいのよ。うちは二人で食べ切らないし、生姜ってそんなにたくさん使えないのよね。この前テレビで見たんだけど、乾燥させて食べると・・何だっけ?何か栄養成分が増えて体に良いらしいのよ・・」 よくしゃべる口だな。 さっき見かけた、店の出入り口付近で売っているお菓子でも開けて、この口に突っ込んでやりたい。 ポップコーンがちょうどいいだろう。 そんな事を考えながら吉川さんの口元を眺めた。 何とも言いようのない色の口紅を塗っている。 「あっ、もうこんな時間。葵のお迎えがあるので、失礼しますね」 私は店内の時計を見て、驚いたふりをして話を切り上げた。 「ああ、そうね。ごめんなさいね、呼び止めちゃって」 吉川さんはおしゃべりを止めて、じっと私を見る。 私は会釈して、吉川さんの視線を感じながら店を後にした。 ぺらぺらと喋り立てて、気持ち悪い。 舐めるような視線が余計に嫌悪感を駆り立てる。 今日は涼ちゃんの部屋で好きな映画を見て、二人でまったり過ごせて、穏やかな一日だったのに。 私は少しがっかりしながら、葵のお迎えに行った。 ここじゃない街で暮らしたい。 どこか遠くの、煩わしさも何もない街。 うるさい人に捕まらないで、帰りたい自分の家に帰れるようになりたい。 今住んでいる街も家も、私が望んだものじゃない。 ゆったり住める大きな家も、温かな自分の家族もあって、贅沢じゃないか。 他人から見たらそうかもしれない。 私は幸せなはず。 幸せなはず? 自分にそう言い聞かせてるだけじゃないの。 私は何が欲しいんだろう。 はっきりとした答えなんかいつまでも出ないまま、私は駅の人混みの中に紛れていった。
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