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第5章
どうしよう、嬉しい。
私は私をこんな気持ちにさせている、一枚のポストカードを不思議な気持ちで眺めた。
人から何かをもらって、こんな気持ちになるのは初めてかもしれない。
夫は今日帰りが遅く、夕食も外で食べて来ると言っていた。
会社の人や社外の仕事関係の人達と食事を兼ねて仕事の話をするようだ。
そんな日の食卓は女三人になり、今日は丼ぶりにして簡単なメニューで済ませた。
葵はいつも通りご飯を食べてお風呂に入り、さっき眠ったところだ。
軽く咳が出るので一応病院に行ったが、特に異常はないらしい。
夕食の後、小児科でもらった甘い匂いのする粉薬を飲んで、いつもより早めにベットに入った。
今はよく眠っている。
私は一人でワインを飲みながら、今日のアート展で見た作品を思い出す。
美術館では大きなパネルになっていた一番好きな絵が、今は小さなポストカードの中に収まって目の前にある。
偶然テレビのコマーシャルで見て、一人でふらりと行こうと思った展示会。
思いがけず涼ちゃんと二人で行く事になった。
絵本の世界に好きなだけ浸り、綺麗な絵の前で感想を言い合い、一緒に見ていると一人では気付かなかった発見もあった。
やけに時間が経つのが早く感じた一日。
楽しかったな。
ポストカードを眺めて今日一日を思い返していると、自然と口元が緩む。
誰もいない部屋で、私は遠慮なく思い出すものに浸る。
数カ月前の休日を思い出す。
夫と葵と三人で、休みの日にキャラクター展に行った。
ショッピングモールの一角で開催される、子供向けのイベントだ。
キャラクターのオブジェと写真を撮ったり、ちょっとしたショーもあると新聞の端に載っているのを、葵が見付けたのだ。
「あっ、いいなーこれ」
いつも見ているアニメのキャラクターを指差して声を上げた。
一日何の予定もない、日曜日の朝。
夫は髭が目立つ顔のまま、ソファーで寝転んでテレビを眺めている。
「ちょうどお休みだし、パパと三人で見に行こうか」
私がそう言うと、葵はその場でぱたぱたと足踏みをして喜んだ。
毎週火曜日の夕方に楽しみにしているアニメ。
葵は主人公が大好きだった。
夫は車を持っているので、三人で出掛ける時は夫の運転で車に乗る事が多い。
その日は午前中のうちに家を出た。
車が動き出すと大抵、葵はチャイルドシートで眠ってしまう。
私は助手席に乗り、夫と二人で並ぶ形になる。
静かな車内で私はラジオをつけた。
葵が寝ているので、音は小さく。
運転が始まって、車通りの多い道に出ると、夫の周りの空気がぴりぴりし始める。
気に入らない対向車に悪態をついたり、少し運転が荒くなったりするので、私は夫の車に乗るのが苦手だった。
明るく喋る、ラジオDJの声だけが車内に響く。
キャラクター展がやっているショッピングモールに着くと、週末なので人が多く、モールは混んでいた。
夫は運転しながらあちこち見回し、やっと空きスペースを見つけた駐車場に車を入れ終えた。
エンジンを切ると、ラジオも鳴り止み静かになる。
運転席で夫は腰を伸ばしてひと息つくと、
「キャラクター展、二人で行ってきて」
と言った。
「どうして?一緒に行こうよ」
私が言うと、夫は本屋で見たい物があるのでそっちに行くと言う。
私は三人で行くのを諦めて、眠っていた葵を起こして二人で会場に向かった。
寝ぼけていた葵は、少し歩くと夫の不在に気付いて辺りを見渡した。
「あれ?ぱぱ、いないの?」
私に尋ねる。
「うん、ちょっと用事があるんだって。ママと二人で見に行こう、ね?」
葵は腑に落ちない顔でしばらく歩いていたが、キャラクターの会場が見えると早足になって私の手を引いた。
嬉しそうな葵の顔を見て、私はとりあえず安心する。
会場は入り口で少し列ができており、私は並ぶ前に葵にトイレに行くのを促した。
並び始めたら行けないかもしれない。
一緒にトイレに行き、トイレの前で葵を待つ。
ショッピングモールは吹き抜けになっており、二階のトイレ前から一階がよく見える。
ふと、一階のカフェに夫がいるのが見えた。
店の外に出ている席に座っているので、ぱっと見てすぐ分かる。
コーヒーカップを前に、ゆったりした椅子に座ってスマホをいじっていた。
「まま、ハンカチないよ。ぶーんっていうの、怖いよ」
葵がトイレから出てきて、そう言いながら駆け寄ってくる。
エアータオルの音が大きいので、葵は怖がって使わない。
ハンカチを渡すと、小さな手に付いた雫を一生懸命拭き始める。
私は葵が夫に気付かないよう、一階が見えない位置に葵を誘導した。
思わずため息が出る。
こんな時、自分の思った事がはっきりと言えたら。
何で三人でいようとしないの?
子供もいるのに。
せっかく家族で過ごせる休日なのに。
夫を責める事ができれば、私は楽なのかな。
この場にいない人に気持ちをぶつけようもなく、私は小さな手を引いたまま、賑やかな会場まで歩いた。
今日もらった綺麗なポストカードは、フレームに入れてベットの近くに飾りたいくらい素敵だ。
どうしようかな。
隣で夫が眠るベットに飾るのは、やはり気が引けた。
もしも飾ってあったとしても、夫は何も言わないだろう。
むしろ飾ってある事すら気付かないかもしれない。
私はそっと自分のドレッサーの引き出しにカードを入れる事にした。
一人の時、たまに取り出して眺めるだけでも、充分だと思えてくる。
明日は仕事なので、ワインは二杯くらいにして眠らないと。
私は葵を起こさないように、寝室にそっと入った。
朝起きたら朝食や弁当を作って夫を送り出し、自分の身支度を済ませてから葵の支度を整えて、こども園に連れて行く。
こども園から駅まで歩き、そのまま仕事へ向かう。
私はランチタイムの勤務なので、九時半から十時の間に職場のレストランに行く事になっていた。
「おはようございます」
タイムカードを押すためにスタッフルームに行くと、店長が難しい顔をしてパソコンを見つめていた。
「ああ、中森さん、おはようございます」
店長はパソコンから目を離さずに言う。
かちゃかちゃキーボードを叩きながら、独り言を言っている。
いつもの事だ。
店長は私より歳下で、確か二十八くらいと聞いた。
独身で、県外から一人でこっちに来て、職場の近くに部屋を借りて住んでいるらしい。
初めての一人暮らしだと言っていた気がする。
人当たりが良く話しやすいのだが、少々身なりがだらしない。
服がしわくちゃだったり、汚れているズボンをそのまま履いていたりするので、本社の人間が来ると時々注意されていた。
私はロッカールームに行って制服に着替えると、ホールに出てテーブルのチェックをする。
調味料の補充やランチメニューが各テーブルにあるか確認する。
やがてランチタイムが始まり、平日は週末ほど混まないけれど、そこそこ忙しい。
仕事の休憩時間らしき社会人お客さんや、仕事をリタイアした老夫婦のお客さん。
お昼はメニューが決まっているランチセットがよく出る。
平日はいつもそんな感じ。
私はホールの仕事に集中した。
メニューを承り、出来た料理を運ぶ。
やがて波が引くようにお客さんが少なくなっていき、私は厨房に回って食器を食洗機から出したり片付けたりした。
湯気が出る食洗機の近くで作業していると、うっすら汗をかく。
綺麗になったコップやお皿は割らないように気を使って扱うので、私はこの作業の後にどっと疲れが来る。
今日はまぁまぁ忙しかったな。
あっという間に勤務時間が終わる。
買い物に行って、葵を迎えに行こう。
私は制服から私服に着替えると、タイムカードを押しに行った。
「中森さん、ちょっといいですか?」
店長に呼ばれ、私は立ち止まった。
ヘビースモーカーなので、相変わらず煙草の匂いがきつい。
店長は来月のシフト表を見ながら、私が休みの予定になっている日に、出勤できないかと聞いてきた。
日付けを見ると、涼ちゃんの部屋に行く約束の日だ。
「ごめんなさい、その日は予定があるんです」
私が言うと、店長は肩を落として「そうですか」と言った。
シフトを見て、私は勤務時間や出勤日数を確認する。
「店長、私は扶養内で働いてるので、このシフト以上入ってしまうと既定オーバーしちゃいますよ」
私がそう言うと、店長は
「あー、そうだった」と呟き、頭を抱えた。
扶養内で働いている人間は、社内既定で時間と日数が決まっている。
先月、ランチタイムに入っていた主婦の女の子が妊娠して、悪阻がひどいので退職した。
今月に入ってからも一人、旦那さんの転勤で引っ越しのために仕事を辞めている。
面接の応募も今のところないようで、ここ最近人手不足だった。
「すいません、お役に立てず」
私が言うと、店長は
「いえいえ、無理言ってるのはこっちですから」
と言い、またパソコンに向かった。
店長はいつも顔色が悪く見える。
知らない土地で一人暮らしだし、大丈夫なのかな。
ちゃんとした食事も食べられているか分からない。
少し気の毒になる。
私はお先に失礼します、と言って店を出た。
仕事終わりの金曜日の夕方、明日は休みだ。
今夜は何を作ろうか考えながら、いつも買い物するスーパーに向かう。
土日は学生のバイトが多いので、基本私は仕事を休む事にしている。
次に出勤したのは月曜日だった。
「おはようございます」
ロッカールームに入ると、同僚が一人、先に着替えている。
「おはよう」
「おはよう。ね、昨日のドラマ、見た?」
彼女は着替えながら私に聞いた。
彼女は同じ主婦の扶養内バイトで、歳も近いので話しやすかった。
大人になるとなかなか友達を作る機会もなく、結婚して地元から離れた私は、こうして気兼ねなく話す相手がいるのが嬉しかった。
働きに出ていて良かったと思う。
「見た見た。あの展開だと来週どうなるの?って感じだったね」
「そうそう」
ひとしきりドラマの話をすると、先に着替え終わった彼女は声をひそめて言った。
「中森さん、店長の事、聞いた?」
店長?そういえば今日は見掛けていない。
「いや、何も。店長どうかしたの?」
私が聞くと、彼女はより声をひそめて、
「土曜日から、無断欠勤。連絡も取れないんだって」
「えっ」
私は驚いて着替える手が止まった。
金曜日に話した時は、いつもと変わりなかったのに。
「店長、一人暮らしだよね?大丈夫なのかな。事件とか事故に巻き込まれてない?」
私がそう言うと、彼女は「それは無いよ」と言った。
「書き置きがあったらしいよ、スタッフルームに。店長がいつも使ってたパソコンあったでしょ?あそこの近くに、『迷惑かけます、ごめんなさい』っていう紙が置いてあったみたい」
スタッフルームの、いつも店長が座っていた椅子。
キーボードのかちゃかちゃいう音を思い出す。
アイロンが掛かっていない、しわしわのくたびれたシャツ。
不健康そうな顔色。
シフトに悩んで頭を抱える姿。
「仕事、辛かったのね。飛んだのよ」
彼女が言う。
飛ぶ?
ああ、高飛びか。
退職願いもなく音信不通なら、高飛びといってもおかしくない。
きっとこれから本社の人間や、県外に住むという店長の身内は慌ただしくなる。
ただでさえ人手不足のこのレストランだって、管理する人間がいなくなってしばらく大変だ。
どうなるんだろう。
そうなる状況を理解しつつも、私は咄嗟に店長を羨ましいと思ってしまった。
店長が飛んだ。
今も彼はどこかで辛い思いをしているかもしれない。
仕事を失い、これからどうやって生活していこうか考えなくてはいけない状況だろう。
でも、とりあえず自由になったのだ。
もうレストランに来て、頭を抱えることはない。
いまいち清潔感なかったけど、良い人だったな。
みんなから店長、店長、と呼ばれながらも、腰が低く、威圧感も感じさせない丁寧な話し方をする人。
もう会うこともないと思うと、強すぎる煙草の匂いすら懐かしく感じた。
仕事が休みの平日がきた。
私は玉ねぎやサラダ用の野菜と、インスタントスープの素が入った袋を持って、涼ちゃんの部屋に行く。
涼ちゃんがハンバーグが食べたくて、自分で作ってみたけど上手くできなかった、という話を聞いたので、今日一緒に作ってお昼に食べる予定だ。
合い挽き肉はあるらしいので、家から野菜だけ持っていく。
涼ちゃんは包丁を使うのが意外に上手だ。
器用に玉ねぎの微塵切りをする。
涙を流しながら切っているので、途中で私と交代した。
私も涙が止まらない。
切っているうちにだんだん笑えてきて、二人で笑ったり泣いたりしながら、代わりばんこに切っていく。
卵やパン粉、牛乳も入れて混ぜ合わせる。
ナツメグはなくても、まぁいいか。
成形して温めたフライパンに入れ、焼き目を付けた後、弱火で蒸し焼きにした。
「美味しそう」
涼ちゃんは部屋に漂う匂いを吸い込んで言う。
ハンバーグが中までしっかり焼けるまでの時間、サラダを作る。
十分程で焼き上がり、付け合わせがあるお皿に載せると、それなりに見えた。
小さなテーブルで向かい合って、出来上がった料理を食べる。
「美味しい。百合さん、仕事でも厨房入る?」
「入らないよ。家でもご飯作るから、仕事ではあんまり入りたくないもん」
涼ちゃんは「それもそうだね」と笑って、白いご飯を頬張った。
若い男の子は美味しそうによく食べる。
私が茶化して自分の分をひと口差し出すと、それもぺろりと食べた。
見ていて気持ちがいい。
私はレストランの店長がいなくなった話をした。
涼ちゃんも驚いて
「良い人だったのにな」
と呟いた。
「ね、私もそう思った。仕事辛かったんだね」
私はそう言って、沸いたお湯でインスタントのスープを作る。
涼ちゃんはクラムチャウダー、私はオニオン。
「店長と僕、好きな音楽の趣味が似ててさ、話してると楽しかったな。他の夜スタッフからも好かれていたよ。何でも話しやすい雰囲気の人だったし。そっか、お店任される仕事って大変だな」
涼ちゃんはそう言うと、出来たてのクラムチャウダーを飲んだ。
涼ちゃんは大学出たらどうするの?
どこで、どんな仕事したい?
私は何気なく聞きそうになり、ひやりとして言葉を飲み込む。
私達は、将来の話はしない方がいい。
そういう関係だからだ。
最近、涼ちゃんの前で気持ちが緩んでいくような心地良さを感じてしまい、自分に家庭があって、これが人に言えない関係である事を忘れそうになる。
いつまでも一緒にいられない。
期限付きの関係と割り切っていたのに。
涼ちゃんといる事が私の日常になりつつある。
ふと目の前にある風景が当たり前ではないと気付くと、少しずつ不安な気持ちがじわじわと湧き出てきた。
あまり深く考えないでおこう。
せっかくのハンバーグが不味くなってしまう。
私はスープで全てを流し込むように、自分の気持ちを胸にしまい込んだ。
食後に温かいお茶を飲んで、お昼の情報番組を見る。
この時間にやっているのはニュースではなく、食べ物のおすすめや観光地紹介だ。
今は鎌倉の観光スポットを紹介している。
穏やかな話題でゆるゆると番組が進んでいく。
「お腹いっぱいだね。一番眠くなる時間だ」
涼ちゃんが目をつむって言う。
「お昼寝しようか」
私は冗談めかして言ったつもりだったが、涼ちゃんはこっくりうなずいた。
ベットに入って「百合さんも」と言い、隣に寝るよう、私に促す。
ひんやりと冷たかったベットは、二人で入っているとたちまち温かくなった。
温かさが余計に眠気を誘う。
一人用のベットでは体を寄せ合わないと二人収まらない。
私は自分の鼻先に見える涼ちゃんの顔を見る。
もう完全に眠りに入ろうとしている寸前だった。
やがて、すうーっと静かな寝息が聞こえる。
あれ、涼ちゃんってこんな顔だっけ。
私はうとうとしながら、そんな事を思う。
ただお腹が膨れて眠るだけの涼ちゃんの顔からは、何の感情も読み取れない。
本能が満たされて、あれこれ考えずに眠る無邪気な寝顔。
私はその寝顔に、愛おしいような気持ちが湧き上がってくるのを感じながら、自分も眠りに落ちていく。
そのまましばらく、静かで温かいベットの中でお昼寝をした。
「百合さん、そろそろ起きて」
涼ちゃんの声に起こされて、私ははっと目が覚めた。
一瞬ここがどこか分からなくなり、ぼんやりした意識を整える。
そっか。
作ったご飯をお腹いっぱい食べて、お昼寝したんだ。
天井を見つめたまま、ここに来てから今までの時間を思い出していく。
涼ちゃんは目が覚めた私のおでこに、優しくキスをした。
気持ちいい。
私は涼ちゃんにしがみついて息を吸い込んだ。
彼の服には二人で作った料理の匂いが残っていて、私はだんだん離れがたくなっていく。
「そうだ。百合さんこの前、ここの屋上まで行こうとしたでしょ?」
涼ちゃんが言う。
「うん。外からは屋上の柵しか見えないけど、結構広そうだよね」
私はそう答えて、前に階段で四階から見た景色を思い出した。
「最近知ったんだけど、ここの一階の角部屋に住んでるのが、この建物の持ち主のなんだって。その人に言えば、屋上の鍵、貸してもらえるみたい」
「そうなの?」
「うん。貸りておくから、今度天気良かったら上がってみようよ」
嬉しい。
私は胸の中に広がる幸福感をじんわりと感じ、ふと時計を見て、そろそろ行かなくてはいけない時間なのに気付く。
「ありがとう。今日はもう行かなくちゃ。じゃ、またね」
私はベットから出て帰り支度をすると、玄関で靴を履いて部屋を出る。
そっと玄関の扉を閉めて歩き出すと、階段を降りる手前で立ち止まり、上に続く階段を眺めた。
踊り場から差す日の光が眩しい。
最後まで登って行って、辿り着く屋上はこの建物の最終地点。
そう思うと、私は屋上まで行くのがちょっと怖い気がした。
行き着く先には何がある?
このまま駆け上がって行って、屋上から何にもない青い空に向かって飛べるなら。
そうだとしても、私は踏み出せない。
葵が待っている。
賑やかなほし組の部屋へ、早くお迎えに行かないといけないからだ。
私はマンションを出ると、帰ってからの家事の段取りを考えつつ、早足で駅に向かった。
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