第6章

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第6章

あれ?百合と結婚して何年経ったっけ? 昼休み、弁当を食べながら会社の同僚とそんな話をしていて、すぐに思い出せなかった。 確か僕が二十九歳になる年に結婚したから、七年か。 今月結婚記念日があったから、ちょうど丸七年。 僕達夫婦は、結婚記念日に何かするわけでもなく、何かしようという話もしない。 その事で、今まで百合は文句一つ言わなかった。 「記念日に何もしないって、寂しくない?」 同僚が言う。 彼も結婚して僕と同じくらい経ち、小学生と幼稚園に行っている子供がいる。 似たような境遇なので、話す内容も家や子供の話題が多い。 「寂しいって、僕が?嫁が?」 僕がそう言うと、同僚は苦笑いした。 「どっちもだよ。まぁ、でも普段上手くやってるならそれでもいいのか。記念日にこだわることないよな」 僕は適当にうなずいて同僚の言葉を流す。 僕は百合の事が好きだし、大事にできていると思う。 べたべたし過ぎない、ちょうどいい距離感。 きっとその方が長く一緒にいられる。 さて、お昼を食べ終えたらすぐ午後からの仕事に取り掛からないと。 今日は忙しい日だ。 五つ歳下の百合と出会ったのは、友達の紹介だった。 学生時代の友達に、人をたくさん集めてはバーベキューやら飲み会を開催するのが好きな奴がいて、独身で休みに退屈を持て余していた僕は、時々顔を出していた。 そこに来ていたのが百合だ。 多分友達の彼女の友達、みたいな感じで呼ばれていたんだろう。 日曜日の昼間、友達の家の庭でバーベキューをしていて、確か十人くらい集まっていたと思う。 串に刺した肉や野菜を焼いている友達の横で、僕はビールを飲んでいた。 男同士でグリルを囲み、馬鹿みたいにふざけ合いながら、焼けた串を食べる。 僕はこんな時間が好きだった。 学生時代からの馴染みの友達と、子供みたいに騒ぐ週末。 気楽でいい。 女性は三〜四人いて、少し離れた所で仲良く喋っている。 話す声が小さいので、内容までは聞こえてこない。 僕は何となく女の子たちを眺めながら、焼けた肉を食べていた。 「お前、タイプじゃない?」 隣で肉を焼く友達が、百合を見ながらこっそり僕に言った。 確かに。 華奢な体付き、色白で可愛い。 友達と付き合っている、背が高いモデルのような彼女と一緒に喋っていたので、余計そう見えた。 大人しそうで、少し下がり気味の大きな目が印象的だ。 やや頬がふっくらしていて、どちらかと言えば童顔。 自分から話すというより、聞き役に徹する雰囲気。 人の話を優しい顔で聞いている。 いいな。僕は気の強そうな女より、こっちがタイプだ。 「今彼氏いないんだって。チャンスだぞ。連絡先、交換しろよ」 友達にそう言われて、昼間からビールを飲んで少し気が大きくなっていた僕は、自分から連絡先を聞いた。 初めてのデートではドライブに行き、五回目のデートでキスをした。 僕が自分から積極的に連絡して、休みに約束を取り付けて会う事が多かったように思う。 社会人になってから、なかなか異性と出会う機会がない。 周りにも少しずつ結婚して家庭を持つ知人が増え始め、僕は百合との関係をこのまま結婚に繋げた方がいいと思っていた。 八回目のデートでドライブに行った帰り、初めてホテルに寄った。 百合は戸惑う事も拒む事もせず、それなりに楽しんでいるようだった。 そこから二年付き合って結婚した。 運命を感じたとか、百合を独占したいとか、そういう気持ちは正直ない。 大人しくて自己主張も少ない、家庭を守ってくれそうな雰囲気の百合。 細かい気配りも上手だし、きっと周りから見てもいい奥さんだ。 年齢的にもそろそろかな、という感じで籍を入れる。 世の中の大半の結婚ってみんなそんな感じなんだろうと、僕は思う。 今日の仕事は思っていた以上に忙しかった。 いつもより遅くなり、暗くなった夜道を歩いて家に入る。 「お帰り」 仕事から帰ってリビングに行くと、母が一人でテレビを見ていた。 百合は二階の部屋でテレビを見ているようだ。 時間的に、葵はもう寝てるだろう。 同じ部屋に、百合と母が二人でいる事なんてない。 二人だけで話をしている様子も、あまり見た事がなかった。 「ただいま」 僕はリビングとつながったキッチンに行き、今日使った弁当箱やら水筒をシンクに入れる。 一人分の食事が用意されたテーブルを眺めた。 仕事で遅くなる日は、だいたいこうして一人で食べる。 僕の帰りに合わせていたら、葵の寝る時間も遅くなるからだ。 僕は夕食を温めてすぐに食べ始めた。 こういう時、母と二人になると何かと話し掛けられる。 仕事はどうなんだとか、葵の家での様子の話から始まり、最近あった事やテレビの話をしてくる。 僕は夕食を食べながら、適当に相手をした。 父は僕が結婚する前に病気で亡くなった。 母も家に話し相手がいなくて、寂しいのかもしれない。 そうは思っても、仕事から帰って疲れている時に話の相手をさせられるのは、少々うんざりする時もある。 母が嫌いではないが、うるさいな、と思うのはしょっちゅうだ。 独身だといつ結婚するのか、結婚したら子供はまだか、一人目が産まれれば二人目はいつ? 親から求められる事はキリがない。 息子の人生に構うしかやる事がないのかと思うと、趣味でも仕事でも見付けて、自分に時間を使えばいいのに、と思う。 「そうそう、百合さんって駅の近くに住んでるお友達でもいるのかしら」 葵の話をしていた母が、急に話題を変えて言う。 話の流れを変えて、とめどなく話し続けるのはいつものことだ。 「さぁ、実家のある地元に友達はいるだろうけど。こっちにいるかどうか知らない」 僕は味噌汁を飲みながら答えた。 「吉川さんがね、駅の近くにあるマンションに百合さんが入って行くのを見掛けたって言うのよ。買い物袋を持って入っていったっていうから、お友達に何か差し入れに行ったのかと思って」 駅の近く? その辺りに住んでる友人や知人は、僕の知る限りではいない。 「同じレストランで働いている誰かじゃないの?百合と似たような主婦の同僚が何人かいるみたいだし。仲良くしてる人に何か持って行ったんじゃない?」 僕は言った。 母は「そうなのかしら」と言って少し黙ったが、やがてテレビから視線を外す事なく喋り出す。 「百合さんて、何考えてるのか分かんないとこあるのよね。あんまり私とは話してくれないし。前だって食器棚の中にあった瓶がないから聞いてみたら、知りません、の一言だったし・・あの瓶に入れたい物があったのに・・」 母の愚痴が始まる。 結婚したばかりの頃は、百合を可愛い、いいお嫁さんだと言っていた母も、何年も一緒に住んでいると色々思うところがあるらしい。 百合も同じだろう。 僕から見ても、仲の良い嫁姑と言い切る事はできない。 今のところは何とか、お互い距離を保って一緒に暮らせているだけだ。 葵の存在も大きいだろう。 三人で話している場面を見ると、百合も母も葵の方を向いている印象がある。 葵が産まれていなければ、同居も続いていなかったかもしれない。 「瓶なんか、また買ってくればいいんじゃないの」 僕はそう言って食器を洗って片付ける。 瓶がなくても他に食材を入れる容器なんかいくらでもあるじゃないか。 食器以外にも、よく分からない物がごちゃごちゃ入った食器棚を眺める。 物が多いとストレスだと言っている百合にとっては、使いにくい棚だろう。 何か一つ減ったところで、別に困らない。 「そういう問題じゃないのよ」 母はそう言って溜め息をついた。 そういう問題じゃない。 百合にも言われた覚えがある。 何だっけ? ああ、昨日一緒にテレビを見ている時だ。 整形手術で大変身!みたいなバライティ番組をやっていて、葵が寝静まった頃に百合と二人で何となく見ていた。 全身整形した女性が、整形箇所や手術に掛かった金額をスタジオで披露している。 派手なメイクで、露出の高い服。 大きな胸が器用に服に収まっていた。 見た目に自信ができたので、人に見られたいのだろう。 整形後の女性はにっこり笑って、堂々と画面に映っていた。 「顔が怖い」 百合はテレビを見ながら呟く。 「あのスタジオにいる全員がそう思ってるんじゃない」 僕はビールを飲みながら言った。 「でも胸の形は綺麗に仕上がってるね。私もあんな感じになりたい」 百合がそうぼやくので、僕は 「結婚して子供産んだ後でも、そんなふうに思うの?」 と言った。 そういう問題じゃない。 その時、百合はそう言った。 「あなたって酷い事言うね」とも。 酷い?今言った事が? 何が酷いか分からない。 女って本当に何考えてるか分からないな。 僕は女性だらけの家の中でいつもそう思っていた。 葵がこども園に入ってから、百合はレストランでホールのアルバイトをしている。 妊娠してから仕事を辞めて、ずっと僕の扶養に入っているので、働いていても平日に休みの日があるようだ。 何曜日が休みなのかは知らない。 毎週ばらばらなのかもしれない。 仕事が休みの日でも朝、葵を送って行った後に家には戻らないようなので、どこかでお迎えに行くまで時間を潰しているのだろう。 母が一人でいる家に、戻る気がしないのだと思う。 百合はこんな生活をどう思っているのか、僕は聞いてみた事がなかった。 仕事が休みでも家にいられないというのは辛いものだろうか。 百合は働きに出るようになってから、お給料があるっていい、自分の為にお金を使えて嬉しい、と言っていた事がある。 それなら外に出掛けているのも、気分転換になっていいんじゃないか。 きっと映画を見たり、買い物したりしているんだろう。 前に会社の飲み会があった時、同僚に「同居してて、嫁姑上手くいってるの?」と聞かれた事がある。 「ああ、上手くいってる」 僕はそう言ってうなずいた。 僕の認識では争わない=上手くいってる、だったのだ。 「すげぇな。同居してるくらいだから、相性いいのかもな」 そう言われて、何か違うと思ったけど黙っていた。 同僚は頭を抱える素振りをしながら言う。 「うちなんかさ、もう嫁と俺の母親が犬猿の仲。実家帰る時、嫁さんは絶対行かないから、俺が子供だけ連れて行くんだぜ」 同僚のお母さんも、彼の奥さんには会いたくなくても孫の顔は見たがるだろうから、間に挟まれている彼はしんどいだろう。 もう奥さんは、彼の実家に来なくて当たり前になっているようだ。 その状況を子供に疑問に思われるようになり、どう説明しようかと毎回悩むらしい。 うちは平和だな。 僕はそう思った。百合と自分の母親について悩んだ事なんてなかった。 結婚して同居になった時、上手くいかなかったら家を出ればいいと思っていた。 どこかで賃貸物件を見付けて住んでもいい。 でも同居は今のところ何事もなく続いている。 実際、家賃やローンを払わなくていいのは楽だし、僕はこのまま今の生活が続けばいいと感じていた。 大きさや広さも充分にあるこの家で、四人で暮らしていける。 葵もいずれ僕が通っていた学校に通い、母と百合に見守られながら大きくなっていく。 それが僕達家族にとって一番いい形なんじゃないかな。 そんな家を守る為に、今日も朝から晩まで頑張って働く。 僕は今の自分の立ち位置みたいなものに、安心感を持っていた。 六月の半ばに入った頃、少し早めに家に帰ると僕の足音を聞きつけた葵が、玄関まで駆け寄ってきた。 「ただいま」 「お帰り、パパ」 僕は荷物を壁際に置いて、葵を抱き上げる。 小さい頃から、仕事から帰って来ると時々こうする習慣みたいになっているが、最近だいぶ重たくなってきた。 話す言葉もしっかりしてきて、拙い物言いをしていた時期が早くも懐かしい。 あっという間に大きくなっていく葵。 抱っこして近くで顔を見ると、目を伏せた時の仕草が百合によく似ている。 長い睫毛が灯りの下で影を作り、夢中で何かを見つめている時は瞬きが少ない。 百合も子供の頃、こんな感じだったのだろう。 葵は初めてのお泊り会があると言って、手に持っていたお便りを僕に見せた。 こども園らしい賑やかなイラスト入りで、読む人間の目を引く。 開催される日付が大きく書いてあり、お泊り会はまだ一ヶ月くらい先のようだ。 「へぇー、葵、行くの?」 「うん、他のお友達もみんな行くんだよ」 「そっか、良かったな」 僕はそう言って葵を下ろすと、荷物を持って部屋着に着替えるため寝室に行った。 夕食時は葵がお泊り会で友達の誰と一緒に寝るか、新しいパジャマを買おうかという話で、女性三人は盛り上がっていた。 葵の友達の名前もあまり知らず、どんなパジャマがいいかもよく分からない僕は、黙ってテレビを見ながら食事をする。 「夜、花火が見えるんだよ」 葵が僕に話し掛ける。 「花火?こども園でやるの?」 僕がそう言うと、百合が 「違うよ。毎年河原でやっている花火が、こども園の屋上から見えるんだって」 と言った。 そういえば毎年やってるな。 見に行こうと思った事がないので、聞くまで思い出さなかった。 「夜に外に出るなら、虫よけスプレー持ってくといいかな。葵、自分でできる?」 百合が葵に聞いている。 いつもあれこれ心配しすぎだ。 葵だって自分でそのくらいできるだろうに。 百合もいつか僕の母のように、子供に口うるさくなっていくのだろうか。 虫刺されの話を聞いていたら、さっき仕事帰りに首の辺りが痒かったのを思い出した。 この時期、もう蚊がいるみたいだ。 僕は洗面所の鏡で首元を確認して、一箇所刺されている部分を見付ける。 百合に薬をもらおうと思ったけど、食器や鍋を洗うのに忙しそうだったので、自分で探す事にした。 寝室にある薬箱の中を見て、虫刺されの薬を探したが見当たらなかった。 薬箱は小さくて、これ以上入らないくらい色々入っている。 他の場所に置いてあるのか? 子供が触らないように、見えない所に仕舞っているのかもしれない。 ふと目に付いた百合のドレッサーの引き出しを探す。 中を探ると、使いかけの化粧品やアクセサリーしか入っていなかった。 引き出しの中で、手の甲に触れた口紅の蓋が開いて、蓋と本体がばらばらになって転がった。 慌てて閉め直す。 ドレッサーに色が付いたら取れないかもしれない。 こんな色、いつ着けるんだよ。 蓋を閉める時に見えた色を見て、僕は思う。 鮮やかに目に残る、赤。 ドレッサーの三番目の引き出しは開けにくくなっていた。 よく見ると簡易のチャイルドロックが付いている。 葵が開けないようにしてあるのかな。 僕はここに薬がある気がして、ロックを外して開けた。 虫刺されの薬はない。 小さなポーチと、僅かな生理用品があるだけ。 指先でどけた生理用品の隙間から、一枚の薬のシートが出てきた。 赤、黄色、白、シートの中には色の違う薬の粒が並んでいる。 何の薬だろう。 百合は体のどこか悪いのだろうか? 僕はシートに書いてある薬の名前を、その場でスマホで検索した。 経口避妊薬。 何でこんなもの飲んでるんだ? 僕は思いも寄らない物を見てしまって、咄嗟に薬をしまうと元通りロックをかけた。 僕達はもう何年も、体の関係がない。 百合が出産後に体の調子が戻らない、と僕の誘いを断り続け、いつの間にか僕も誘わなくなった。 同じ寝室で葵が眠っているし、仕事で疲れている日が多くなってきたせいもある。 なのに百合は避妊が必要な状況にいる? ふと、以前母から聞かされた、駅の近くのマンションに百合が入って行った話が、僕の頭をよぎった。 まさか。 「どうしたの」 後ろから百合に声を掛けられ、振り向く。 立ち尽くす僕を、不思議そうに眺める百合と目が合った。 キッチンで洗い物をしていたせいか、お腹の辺りに雫が掛かった跡がある。 まとめた髪がほつれていて少し落ちているし、朝からしていた化粧もぼんやりとしていた。 夕食に揚げ物を作っていたので、汗で落ちたのかもしれない。 いつものように、家にいる百合はだいたい着古したトレーナーを着ている。 料理や掃除で汚れてもいいようにだろう。 僕はさっき見た口紅が、百合の物ではなく他に持ち主がいるような気がしてきた。 自分が寝室に何をしに来たのか思い出し、百合に聞いた。 「虫刺されの薬って、どこにあんの?」 百合は薬箱を開けると、しばらく探していたが手を止めて言った。 「ああ、ごめん。そういえば使用期限が切れてたから、処分したんだった。刺されたの?どこら辺?」 僕が首元を指すと、百合はそばに来て近くで見ようとする。 長い睫毛を伏せた目が、ちらりと視界に入った。 色味のない唇から漏れる息が、僕の耳元に触れる。 いつもと変わらない百合。 なのに急に他人のように感じて、近付いて来た百合に僕は軽く動揺する。 「お義母さん、薬持ってないかな?聞いてみたら?」 そんな僕に気付く様子もなく、百合は箪笥の前でしゃがんで引き出しを開けた。 寝室に葵の着替えを取りに来たようだ。 小さな下着を取り出して、近くにあったカゴに入れる。 一緒にお風呂に入るのだろう。 百合が部屋から出て行った後、僕はしばらくそこから動けなかった。 僕は自分が朝仕事に行く為に家を出た後、この家がどうなってるか知らない。 こども園に葵を送って行った後、百合がどこで何をしているかも。 近くにあるドレッサーを見ていると、平日に仕事が休みの百合の姿が、次第に見えてくるような感覚におそわれた。 いつも家でよく着ている、着古したトレーナーを脱いで、細かいレースの付いた下着を着ける。 カップに小さめの胸を収めるように、鏡を見ながら。 クローゼットに掛かっている、デコルテが綺麗に見えるカットソーに着替え、ドレッサーの前で丁寧に化粧をする。 髪をきっちりまとめて、さっき引き出しで見たあの口紅を塗る。 色とりどりのシートから一粒の薬を取り出し、そっと指先でつまんで口に含む。 水の入ったコップに残る、赤い口紅の跡。 僕の知らない百合。 この家が平和で、上手くいっていると思っているのは僕だけなのか? これがみんなが幸せな暮らしだと、納得しているのは自分だけ? 結婚して七年。 初めて僕はそんな事を考えた。 浴室から百合と葵の話し声が聞こえる。 楽しそうに笑う声。 僕は自分だけ別の世界にいるようで、目の前にある小さな薬箱が、作り物のおもちゃみたいに見えた。
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