第7章

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第7章

毎日家に帰ったら、こども園からのお便りや連絡帳のチェックをする。 連絡帳で一日の葵の様子や、何をして遊んだかなどを知る。 〈今日は雨だったので外で遊べない、と残念そうでした。お友達とキッチンセットでおままごとをして、小さなお母さんになっていました〉 想像して口元が緩む。 私の知らない葵の時間。 人数が多いこども園はお友達もたくさんいて、いつも葵は楽しそうにその日あった出来事の話をする。 最近、前より話をするのが上手になってきた。 自分の感情を言葉にできず、泣いていた小さな葵が懐かしくなる。 連絡帳と一緒にもらったお便りを見ると、お泊り会の案内だった。 先生達と地区のボランティアの数人で一晩、こども園で過ごす。 自由参加のようだが、葵は行きたがるのだろうか。 産まれて初めて、親と離れて夜を過ごす事になる。 「葵、お泊り会だって。行きたい?」 私は楽しげなイラストが入ったお便りを、葵に見せながら聞いた。 「うん!だってみんなと夜一緒に寝るんでしょ?そら組さんが、おとまり楽しいって言ってたよ」 そら組は葵の一つ上の組で、その子達から前年のお泊り会の話を聞いたようだ。 今回のお泊り会は、葵のほし組とそら組の合同での開催となっている。 「ママやパパ、いないよ?大丈夫?」 「うん、行きたい行きたい」 葵は目をきらきらさせて言った。 お泊り会の夜は、毎年恒例の河原で開催される花火大会があり、それをこども園の屋上から見られるそうだ。 こども園にいるのも、後一年と少し。思い出作りのイベントだ。 夜、外に出るなら虫よけスプレーを持って行くといいかな。 私は持ち物を用意する段取りを考え始めていた。 次の平日休みの日、涼ちゃんがマンションの屋上の鍵を貸りてくれたので、初めて二人で上に上がった。 よく晴れた日で、遠くに見える景色もいい。 屋上には古い屋外椅子がいくつかと、それとセットになっているテーブルがある。 「ここで食べたり飲んだりしてもいいんだって。共有スペースだから、片付けさえちゃんとすれば、好きに使っていいみたい」 涼ちゃんが言う。 「夏の夕方とか夜に、ここでビール飲んだら美味しいだろうね」 「いいね、それ」 そんな話をしながら椅子に座ってみたり、手すりの隙間から下を覗いてみたりしていると、ふと思う。 来月にある、葵のお泊り会の日。 夜、職場の飲み会と言って出掛けようか。 ここに来られるかもしれない。 私は涼ちゃんに、たった今思い付いた話をした。 「いいの?夜までここにいて、大丈夫?」 涼ちゃんが心配そうに言う。 「うん、多少遅くなっても大丈夫」 あまりない機会だし、家で葵がいない食卓を囲むなら、私はここに来たいと思った。 「じゃあその日も鍵、貸りておくよ」 涼ちゃんがそう言って、その日に会う約束が決まった。 お泊り会の前日に、葵と二人で持ち物の準備をする。 新しいパジャマを買ったので、葵はますますお泊り会が楽しみのようだ。 同じクラスの子もほとんど参加するようで、賑やかなお泊り会になりそうだ。 「夜はみんなでカレー食べるの。デザートにフルーツヨーグルトもあるんだよ」 葵は歯磨きセットを巾着袋に入れながら言った。 「そう。良かったね。歯磨き、寝る前にちゃんとできる?鏡見ないとだめだよ」 私は言う。 大丈夫かな。 夜、私がいなくても眠れるだろうか。 そんな私の心配をよそに、葵はそら組さんがお化け屋敷を手作りで用意してくれて、夜はそれが楽しみだという話をした。 お泊り会当日は荷物がいつもより多く、大きな鞄を抱えてこども園に向かう。 葵はいつもよりハイテンションで部屋に向かった。 私は先生に夜もお世話になる旨を挨拶して、こども園を出ると仕事に向かった。 今夜は葵がいない。 出産してから初めての事だ。 変な感じ。 仕事が終わってから、そのまま職場の人と食事に行くから、夜遅くなると義母や夫にも言ってある。 家に帰らなくていいと思うと、開放感で体が浮くような気分になってきた。 夕方いつも通りの時間に仕事を終えて、店を出た。 時計を見ると約束の時間まで、まだ少しある。 私は一人でカフェに入って、ゆっくりコーヒーを飲みながらぼんやりと雑誌を眺めた。 普段は仕事が終わった後、こんな時間はない。 私は気の済むまでカフェにいた後、ビールや軽く食べられるものをスーパーで買って涼ちゃんの部屋に行った。 夜の七時半。 日が長いこの時期も、薄暗くなってきて屋上から見える夕陽が綺麗だった。 昼間の暑さも和らいで、風が気持ちいい。 「乾杯」 涼ちゃんとビールを開けて飲む。 屋上にある、小さな物置きの中にあったラグを下に引いた。 自由に使っていいらしい。 大きめのクッションや、涼ちゃんの部屋にあったランタン型のライトも持ってきて、くつろげるスペースを作った。 私はスーパーで買った、オードブル系のパックを開けて広げる。 「遠足みたい」 涼ちゃんが唐揚げをつまみながら言う。 「夜の遠足、いいね」 私もエビフライをつまみながらビールを飲む。 こんな時のビールは本当に美味しい。 「百合さん」 涼ちゃんが私を呼ぶ。 「なあに」 私はひと口目でくらりときた、ビールの余韻を楽しみながら返事をした。 「百合さんはどうして僕に会いに来るの?」 こっちをじっと見つめて、涼ちゃんが聞いた。 どうしてだろう。 今日はどうして? 夜、葵がいないから? 一ヶ月程前、ここに来ようと思い付いたのは自分だ。 「今日の朝、みそ汁に入れる玉ねぎ切ってたらさ」 口から出る言葉は塞き止めるものもなく、するすると流れる。 「涼ちゃんに会いたいなぁって思ったよ」 「何でだよ」 涼ちゃんが笑う。 「分かんない」 何でだろう。 この前二人で切った玉ねぎの微塵切りを思い出したからか。 二人で何か共有する度に、日常で思い出す事が増えていく。 積もり積もっていく幸せな時間。 その相手が涼ちゃんである事が、近頃不安になってくる。 私はそんな不安が浮かぶたび、すぐに振り払うようにしていた。 「今日ここから花火見えるね、きっと」 私は言う。 「花火?」 「うん、毎年河原で上がるやつ。葵もお泊り会でこども園の屋上から見るんだって」 「そうなんだ」 去年の花火が上がる頃、何してたっけ。 何も思い出せないから、見に行ったりしていない事は確かだ。 今年涼ちゃんと見る花火は、来年思い出す事になるだろう。 その頃、私達はどうなっている? 涼ちゃんが最近バイト先の居酒屋に来る、変わったお客さんの話をしていて、私が笑いながら聞いている時だった。 どどん。 大きな音がして、私の背後で光が散る。 その光を見つめる涼ちゃんの目を、私は真っ直ぐ見てしまった。 心臓が大きな音を立て、鼓動が早くなる。 いつもより早い心臓の音が、ビールを飲もうとした私の手を止めた。 落ち着いて、深呼吸。 急に聞こえた大きな音のせいだ、きっと。 呼吸を整えてビールに口を付けた。 「お、始まった」 涼ちゃんが言う。 私は花火が上がる方向に向き直って、一緒に見つめた。 葵は今頃みんなと花火を見て楽しんでいるのかな。 立て続けに上がる花火を、私と涼ちゃんは二人でくっついて空を眺めた。 季節がしっかりと肌で感じられる時間。 闇に散る光が、目に焼き付いて離れない。 私は今夜ここに来る事にして良かったと、心の底から思った。 「涼ちゃん」 私は涼ちゃんの頬を両手で挟み込むと、ゆっくりキスをする。 息を継ぐタイミングで、涼ちゃんは笑った。 「酔ってるの?」 「そうだよ」 私は酔いのせいにして、何回も何回もキスをする。 いつの間にか花火は終わっていたけど、私は涼ちゃんから離れなかった。 暑さがほんのり残る夜、触れ合うお互いの肌がしっとり汗ばむ。 気持ちいい。 ずっとこうしていたいけど、帰る時間が少しずつ近付いていた。 夜、家に帰ったのは十時半頃だった。ビールはそんなにたくさん飲んでいないので、落ち着いた足取りで家に向かう。 二階の寝室も、義母の部屋も明かりが消えているので、みんなもう眠っているのだろう。 私がそっと玄関を開けて家に入ると、夫が玄関にいた。 驚いて声を上げる。 「びっくりした、どうしたの」 そう聞くと、夫はこちらを見つめた。 飲んでいるのか、目が座っていて赤くなっている。 「お帰り。どこ行ってたの?」 だらしない姿勢で、壁にもたれ掛かった夫が聞いてくる。 いつもそんな事聞かないのに。 何で? 「職場のみんなとご飯食べに行ったの。今朝言ったでしょ」 夫がどいてくれないので、玄関で立ち話をする形になる。 「嘘だろ」 夫はふらりとこちらに近付き、急に私にキスしようとした。 反射的に顔を背けて、夫から離れる。 お風呂にも入っていないようで、アルコールと汗の混じった匂いがして私は嫌悪感でいっぱいになった。 「やめてよ、飲み過ぎじゃないの。お酒臭い」 「自分だって飲んでるじゃない」 「少しビール飲んだだけ。皆が飲んだら合わせて飲むでしょ、ビールくらい」 こんな会話してるくらいなら、早くお風呂に入って眠りたい。 私は夫を押しのけて家に入ろうとした。 「待てよ。お前、誰と付き合ってるんだ。ふざけるなよ」 夫が言い、私は血の気が引いた。 寒い日に裸足になったように、足元が冷たく感じる。 「何言ってるの。意味分からない事言わないで。どいてよ」 夫は靴を脱いで上がろうとした私の両手首を掴んだ。 壁に押し付けられる。 私は力の強さと夫の視線に恐怖を感じて、足がすくみ動けなくなった。 「知ってんだよ。駅の近くのマンション入って行くの見た人がいる」 「私じゃない、知らないよ。人違いじゃないの」 「じゃあ何でピルなんか飲んでるの?」 ピル? どうしてそんな事まで知ってるんだろう。 私は頭の中が混乱する。 「生理前の辛い症状を抑えるために飲んでるの。男の人には分からないだろうけど」 私が言うと、夫は掴んでいた手をやっと緩めた。 逃げなきゃ、ここから。 そう思って後ずさりすると、私は肩を強く押さえ付けられる。 「馬鹿にするなよ」 夫はそう言うと、私の髪を掴んで手を挙げた。 「何してるの!」 消えていた廊下の電気が付く。 義母が顔をしかめて立っていた。 私は殴られる寸前で、止まった夫の手から離れた。 夫は私を押しのけると寝室の方に歩いて行く。 私は震える自分の手をぎゅっと握りしめた。 髪を引っ張られた頭の一部が、少しひりひりする。 最悪だ。 「どうしたのよ」 一人になった私に、義母が聞く。 「私が帰って来ないし連絡もつかないから、苛々させてしまったみたいです。ごめんなさい、夜遅くに騒いで」 私はそれだけ言うと黙った。 義母は溜め息をついて 「葵ちゃんがいない日で良かったわ」 と言うと、部屋に戻って行った。 一人になっても、心臓の鼓動は早いままだった。 指先と足のつま先が冷たくなっている。 夫にばれていた。 いつからだろう。 涼ちゃんの住むマンションや、ドレッサーに隠したピルの事まで。 私はシャワーを浴びながら考えたけど、今更考えても仕方のない事だった。 明日は土曜日で、お泊り会を終えた葵を迎えに行かないといけない。 夜は同じ寝室で眠る気になれず、私はリビングで毛布にくるまって眠った。 朝になって葵を迎えに行く。 葵が帰ってきた家の中は、いつも通り穏やかなように見えた。 お泊り会での出来事を楽しそうに話し、大人達がにこにこ笑ってそれを聞く。 義母の言う通り、昨日葵がいなくて本当に良かったと思った。 その日の夜から、夫は客間として一部屋空いていた場所で寝ると言い、自分のベットを移動させた。 寝室は私と葵のベットだけになった。 「どうして別に寝るの?」 葵がそう聞くので、 「パパは夜までお仕事あるんだって」 と私は答えた。 葵はどこを見ているか分からないような顔で 「大変ね」と言った。 もっと大きくなれば、この状況が何を意味するのか葵にも分かってしまうだろう。 寝室も別になり、夫とは必要以上に会話する事もなくなった。 あれから涼ちゃんとの事を責める事も、疑う事もしない。 別れろとも言わないし、なぜそんな事をしたのかも聞かない。 あの時、夫か最後に言った言葉を思い出す。 馬鹿にするな。 その一言が、私を愛していないのを表している気がした。 夫は自分のプライドを傷つけられた事に対する怒りが、一番大きいのだ。 これまで私に興味がないと思っていたのも手伝い、私と夫の間は完全に冷え切っていった。 この先続く結婚生活が、先の見えない砂漠を歩き続ける長い旅のように思える。 いつまで経っても安らげる場所にはたどり着けない。 強すぎるぎらぎらした日差しが、葵にだけは降り注ぐ事のないようにしないと。 私は娘を守るために生きていかなくちゃいけない。 葵がいつも通り、明るく元気でいてくれる事が家の中のバランスを保っていた。 それからも私は涼ちゃんの部屋に行き続けた。 平日休みになると、部屋で一緒に食事をしたり抱き合ったりする。 今までと変わらない。 いつも通り夕方に葵を迎えに行き、夕食を作って家族で食べる。 夫に知られたという事を、涼ちゃんには言えないまま四ヶ月程経とうとしていた。 私は休みになった木曜日に、また涼ちゃんの部屋に行く。 その日は午前中から何回も何回も抱き合った。 私はこの部屋にいる時だけ、自分の肺が空気を吸い込んでいるのをはっきり感じる。 私の体は確かにこのベットにあって、声を上げれば確かに私の耳にも届く。 涼ちゃんはご近所さんを気にしてか、終始私の唇を自分の唇で塞いだ。 ああ、苦しい。 もっと塞いで。 もう体の中に入れる空気とかいらない。 私の頭の真ん中は温かく痺れて、何も考えない入れ物になっていく。 気付いたらお昼の二時になっていた。 「コンビニ行ってくる。何か欲しい?」 涼ちゃんは服を着ると、財布を持って出る準備をした。 「うーん、アイス食べたいな」 私は自分が子供みたいだと思いながら言う。 「すぐ戻るから、待ってて」 涼ちゃんはベットにいる私を抱き締めてキスをすると、部屋を出てコンビニに行った。 階段を降りる足音を、私は布団にくるまって聞く。 帰りたくない気持ちが大きくなってきたが、そろそろ葵を迎えに行かないと駄目だ。 服を着て、涼ちゃんとアイスを食べたら帰ろう。 ベッドから出て自分のTシャツを着ようとしたら、コーヒーをこぼした跡があるのを思い出した。 午前中ここに来た時、涼ちゃんが急かすので私はよろめいてしまい、テーブルにあったコーヒーカップを倒してしまったのだ。 飲みかけで少しだけ残っていたコーヒーがこぼれる。 涼ちゃんは慌てて「ごめん」と言って、拭いたけど取れなかった。 これを着て帰るのは目立つ。 私は涼ちゃんのTシャツを借りて着た。少し大きいが、悪目立ちはしない。 上からカーディガンを羽織るし、大丈夫だろう。 ふと箪笥の上に、スマホが置きっぱなしになっているのが見えた。 涼ちゃんが忘れて行ったみたいだ。 すぐ戻ると言っていたし、大丈夫かな。 そう思った時、がちゃりと玄関が開く音がした。 私は涼ちゃんがスマホを取りに来たのだと思って、玄関まで持って行く。 玄関には見知らぬ女性が立っている。 こちらを見て、きょとんとした顔をしていた。 五十代くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。 私はなぜか、ここの一階の角部屋に住むという、この建物の持ち主かな?と思った。 会った事はないが、屋上の鍵を時々借りているので、ここに取りに来たのかもしれない。 「こんにちは」 私はとりあえず挨拶する。 女性は部屋の番号を確かめるように見ると 「こちらにお住まいの方ですか?」 と聞いた。 「いえ。ごめんなさい、ここに住む彼は買い物に行きました。すぐ戻ると思います」 屋上の鍵の在り処は分からない・・と思いながらそう言うと、女性は一瞬納得した顔になったが、すぐ訝しげな顔になった。 「私、涼の母親です。あの、どちら様ですか?」 女性が言い、私は驚いて涼ちゃんのスマホを落としてしまった。 慌てて拾う。 割れたりしていないようで、ほっとしたのも束の間、頭の中がパニックになる。 お母さん? 「あ、あの私、彼と同じバイト先で働いている者です。今日、遊びに来てて」 私は言う。 どう見ても不自然だ。 見るからに年上だろうし、涼ちゃんのTシャツを着ていて、寝室からはテレビの音も聞こえる。 部屋全体にくつろいだ空気が漂っていた。 私はさっきまでベットにいたので、髪の乱れを慌てて気にした。 重たい沈黙が広がる。 「ごめんなさい、私もう帰らないといけないんです。涼さん、すぐに戻って来ると思いますので」 私は沈黙に耐えきれず、スマホを箪笥の上に戻すと自分の荷物を持って部屋を出た。 終始うつむいて部屋を出たので、彼女がどんな顔でこちらを見ていたか分からない。 しばらく駆け足で駅に向かうと、私は動悸がひどくなり過ぎて立ち止まった。 走ったせいではない。 異常な心臓の鼓動が収まるまで、私は近くにあった植え込みの近くに座る。 部屋にいるところを見られた。 涼ちゃんは今頃、お母さんにあれこれ聞かれているだろうか。 私は自分のスマホを見たけど、何も連絡はなかった。 もう葵を迎えに行かないと。 頭の中が混乱したまま、帰りの電車に乗ってこども園へ向かった。 家に帰ってからスマホを見ると、涼ちゃんからメッセージが入っていた。 私はどきどきしながら開く。 『どうしたの?コンビニから戻ったら、いないからびっくりした。何かあった?』 お母さんと会わなかったのだろうか? 文面からはそんな感じがする。 私が部屋を出たすぐ後に、お母さんも帰ったのかもしれない。 『ごめんね、鍵もかけずに出ちゃって。葵が少し熱っぽいから早めにお迎えに来て欲しいって連絡あったから、すぐ帰ったの』 そう返信すると、すぐに涼ちゃんから返事が来る。 『そっか、葵ちゃんお大事に。じゃあまた』 いずれ涼ちゃんはお母さんと話をする事になるだろう。 あの人誰なの?から始まり、私がどういう立場の人間かも聞かれる。 人に言えない関係を、涼ちゃんは母親に何て説明する? 私はお母さんと会ってしまった事を、涼ちゃんに話さなくてはと思いつつ、何の連絡もできなかった。 頭の中が混沌として、整理できない。 そんな状態のまま、週明けの月曜日を迎えてしまった。 月曜日。 いつも通り、夕方仕事を終えて店を出ると、声を掛けられた。 振り向くと涼ちゃんのお母さんがいる。 私は心臓が止まる気がしたが、慌てて会釈する。 どうしてここに? 涼ちゃんはレストランを辞めているが、私は自分で自分を、同じバイト先の者だと言ったのを思い出した。 彼女はきっと、居酒屋の方にも行ったのだろう。 「先日はどうも」 涼ちゃんのお母さんはそう言うと、私と向かい合った。 私は何も言えずに黙っている。 「あの、少しお時間いいですか?」 彼女はそう言うと、近くにあるカフェを指した。 うつむいていた私は顔を上げると、彼女と目が合った。 責められると思っていた私は、彼女の目に穏やかな色が浮かんでいるのを見て戸惑う。 そのまま二人でカフェに入って椅子に座った。 「何飲まれますか?」 彼女がメニューを私に差し出して見せた。 「私はブレンドを」 私は差し出されたメニューを見ずに、近くにいたお店のスタッフに言う。 「じゃあ同じ物を」 彼女もそう言って、メニューをテーブルの隅に立てかけた。 「あの、お名前伺ってもいいですか?」 彼女にそう言われ、私は自分の名字を告げた。 「中森さん、今日こうしてあなたと会っている事を、涼は知りません。あの日、私もすぐに涼に会わずに帰りました。こっちに来る用事があったので、ついでに顔を見に寄っただけです。あの日行くという連絡も、涼にはしていませんでした」 やっぱりそうだったんだ。 涼ちゃんはお母さんに、私達の関係を見られた事を知らない。 「初対面で慌ただしいところをお見せしてしまい、失礼しました」 私はそう言って、運ばれてきたコーヒーをひと口飲んだ。 彼女は何も言わずに首を振る。 少し沈黙した後、彼女は言った。 「涼とはいつから?」 私はぽつりぽつりと話し始めた。 バイトではシフトがすれ違いだったが、職場の飲み会で話す機会があった事。 この前鉢合わせした時のように、平日会っている事。 彼女は私が話し終えるまで静かに聞いていた。 「中森さん、ご結婚されてるんですよね」 コーヒーカップを持った私の左手を見て、彼女は言う。 私はうなずく。 そこで初めて、彼女は頭を抱えた。 自分の子供が既婚者と付き合っていたら、当然の反応だ。 「ごめんなさい。先週知ったばかりで頭の中が追いついていないんです。息子が家庭のある人と付き合ってるなんて、思いもしなかったから」 私は彼女の気持ちが痛いほど分かった。 葵が大人になって既婚者と付き合っていたら、相手に食ってかかるかもしれない。 今の自分が矛盾の塊である事は、百も承知だ。 自分の息子と付き合う私を責めない、涼ちゃんのお母さん。 落ち着いた雰囲気で話し方に品がある。 きっと普段から、客観的に物事を見ている人なのだろう。 感情的にならずに状況を判断できる。大人なのだ。 そんな人に頭を抱えさせている自分は、一体何をどうしたいんだろう。 「本当なら、涼ともきちんと話をしないといけない事です。まだ学生だし、卒業したらあなたとの関係はどうするつもりなのか。私は、あの子は卒業したら地元に戻って、主人の会社で働くといいと思っていました。進路は本人が決めるものですが、大学に入る前、その選択肢もある事を涼にも話してあります」 進路。将来。 私が考えないようにしていた話だ。 涼ちゃんが地元に戻ったら、今までのように会えないだろう。 「あの子がここに残って仕事を探すと言ったら、中森さん、どうしますか?」 彼女は真っ直ぐ私を見て言った。 私は思わず目をつむって俯く。 そんな涼ちゃんの選択を、手放しで喜べないのは分かり切っていた。 涼ちゃんがここに残ったとしても、私は葵が大きくなるまで、今のままあの家で結婚生活を続けるだろう。 学校を卒業して、二十代、三十代、と続いていく人生の時間を既婚者との恋愛に使って、涼ちゃんに何が残るだろう。 最初から分かっていたはずなのに。 いつかは終わる関係。 終わらせないといけない関係。 「息子と別れて下さい」 きっぱりと彼女が言った。 私は何も言えず、黙っている。 「中森さん、あなただって分かっているはずです。傷付く人がたくさんいる。あなたのご主人やお子さんが知ったらどう思いますか?こんな関係、続けても誰も幸せにならない。私は涼が辛い思いをするのを見たくないし、させたくない。親の立場だったら分かるでしょう?あの子の人生の時間だって、過ぎてしまったら戻って来ないんです。お願いです、別れて下さい・・お願いです、お願いです・・」 彼女は突っ伏して泣き出した。 近くの席のカップルが驚いて、気まずそうに目を背ける。 冷え切っていくコーヒーを前にして、私は動けずに、話せずにいた。 一体何を言えばいい? 「別れます」なんて言えやしない。 じゃあこの先、どうするの? 答えが出せない関係なら、終わらせないと駄目なの? ただ会いたいだけなのに、どうして会ったら責められる? 私はそんな甘い事を言えるほど、自分が若くないのも知っている。 時間が止まったように、私は泣き続ける恋人の母親を見つめるしかなかった。
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