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第8章
今日の夜は冷凍のチャーハンを温めて食べようかな。
そう思うと僕はキッチンで冷凍庫を開けて、少しずっしりとした袋を取り出した。
白いご飯や、作った時に食べ切れなかったカレーも入っているが、基本的に空きスペースが目立つ庫内だ。
普段は入っていない、ラムレーズンのアイスリームが隅にあるのが見えた。
最後に百合さんが僕の部屋に来た時、僕がコンビニで買った物だ。
百合さんの口に入る事なく、もう二週間経つ。
好きなアイスクリームは、ラムレーズンとピスタチオと抹茶。
その三つで、百合さんの中でのランキングも把握している僕はラムレーズンを買った。
一番好きな味があって、今日はラッキーだ。
そう思って部屋に戻ると、百合さんはいなかった。
どうしたんだろう。
僕はスマホを部屋に置きっぱなしだったし、それで百合さんは僕に連絡ができなかったのかと心配になった。
こっちからメッセージを送ると、しばらくして返事が来た。
僕は文面を読んで納得したものの、なぜか不安な気持ちになる。僕の部屋に来て急にいなくなるなんて、こんな事は初めてだった。
そこから二週間、会えていない。
僕は最後に自分の部屋で見た百合さんを思い出す。
ベットの中でくったりと、沈み込むように寝そべる。
起き上がれないほど疲れきって、眠ってしまえばいいのに。
僕は自分勝手な思いが湧き上がってくるのを押さえきれず、軽い自己嫌悪と戦いながら服を着た。
白い腕で毛布を抱きしめるように包み、満ち足りた目をして部屋の壁を見つめている。
ここに百合さんが来るようになってから、何度も見た風景。
でも、明日はこんな百合さんが見られない。
そう思うと百合さんをまだ少しでも引き止めるために、好きな物を買いに行こうとコンビニに行こうとしている自分がいた。
アイスクリームがいくつあっても足りない。
今でも冷凍庫の中で、寂しく転がるラムレーズン。
あの日最後に触れた肌や唇が夢だったみたいに、百合さんはいなくなっていた。
僕は何度か自分から会う約束を取り付けようと試みたが、その度に断られた。
五回目に断りのメッセージが入った時、僕はとうとう百合さんが働くレストランに行って、仕事が終わるのをそっと待つ事にした。
顔を見て、直接話さないと今の状況が分からない。
平日、僕は学校が終わった後にレストランの近くまで行った。
以前あの店で働いていた僕は、従業員用の出入り口も全部分かっている。
百合さんが仕事を終えるであろうと思われる時間に出入り口の近くまで来てしまって、離れた場所で待とうと慌てて思い直す。
誰か知ってる人に見られたら、百合さんが困るかもしれない。
僕は道路を挟んで反対側まで歩いて行き、出入り口が見える場所にベンチを見付けたので、座って待つ事にした。
待ち始めてから十分ほどして、百合さんが出てくるのが見えた。
見覚えのある主婦のアルバイトの女性と一緒に、話しながら歩いている。
出入り口で二人とも立ち止まると、まだ終わらなさそうなお喋りを続けていた。
楽しそうに笑っていて、元気そうだ。
僕はうずうずしながらその様子を眺めて、終わるのを待っていた。
やがて百合さんは手を振って話し相手と別れると、駅に向かって歩き始めた。
僕は後を付いて行き、駅の中の人通りの少ない場所で声を掛ける。
「百合さん」
立ち止まった百合さんは、驚いた顔をしていた。
時間が止まったように、僕を見つめている。
「会えてないから、直接顔見て話した方がいいと思って。僕の事、避けてるでしょ。どうして会ってくれないの?」
僕は問い詰めるような口調になっていた。
でも、はっきりさせたい。
百合さんは困ったような顔をして、黙り込む。
やがて口を開くとこう言った。
「もう、会わない方がいいと思う」
ああ、僕が一番聞くのが怖かった言葉。
「急にどうして?」
「涼ちゃんだって卒業したら地元に戻って就職するでしょう。今までみたいに会えなくなる。あなたが社会人になっても、こんな関係続けるわけにいかない」
「じゃあ地元なんか戻らない。卒業したらこっちで仕事探して、ここに残る」
「そんなの、駄目」
「僕がどうするかなんて、僕が決める事でしょ」
百合さんは首を振る。
「やめてよ。私との関係を続けるためにこっちに残るなんて、私が辛いよ」
何でそんな事言うの?
僕といるのが嫌なのか。
「僕が重たい?こうやって仕事帰りに待ち伏せして、怖いと思ってるの?それならはっきり言って欲しい。わかった、やっぱり旦那さんの方が大事とか、そういう事?」
「そうだよ」
百合さんは間髪入れずに答えた。
「夫が優しくしてくれるから、私、どんどん辛くなってくるの。夫は私が誰かと会ってるのを知ってる。でも私に優しいの。昼間あなたと寝た日だって、家に帰ったら夜に夫とも寝るよ。この前だってそうだったし」
「そんな話、聞きたくない」
僕は顔を背ける。
重苦しい沈黙が続き、息をするのが苦しくなる。
「ただ、これからも会って欲しいだけなのに。簡単な事でしょ?」
そう言って百合さんの手首を掴んだ。
「痛い。離して」
百合さんは体を強張らせて、泣きそうになっている。
「何してるんですか?」
通り掛かった駅員の男性が、こちらに駆け寄って来る。
僕を責めるような目で見て、僕の腕を掴むと百合さんと引き離した。
興奮気味の僕は少し息が荒くなっていて、百合さんは泣きそうな顔をしている。
周りから見たら、百合さんが危ない目にあっているように見えるだろう。
「大丈夫ですか?警察呼びますか?」
駅員さんが言う。
「いえ、何でもないんで大丈夫です。ごめんなさい」
百合さんがそう言うと、駅員さんは心配そうな顔をしつつも、その場を離れた。
間に人が入った事で少し落ち着いた空気になったが、沈黙は続いた。
百合さんの顔が見れない。
「もう帰らなきゃ」
そう言った百合さんの顔を、ようやく僕は見る。
これ以上ないくらい、大きな目から涙が溢れていた。
初めて見る百合さんの涙。
涙の意味も分からず、僕は何も言えない。
早足で去って行く後ろ姿が目に入りつつも、追いかける事もできずに僕は立ちすくんだ。
もう会えない。どうして?
あの日はいつも通りの百合さんだった。
話していても抱き合っていてもいつもと変わらなかった。
僕だけがそう感じていただけなのか?
百合さんは以前から、こうやって別れる事を決めていたのかな。
足元が真っ暗になるような絶望感に包まれる。
通り掛かる人が何人か、不審そうにこっち見るのに気付いて、僕は仕方なく家に帰る方向に歩いて行った。
いつの間にか自分の部屋に着いていて、帰り道をよく覚えていない。
その夜、僕は一人でかなりの量のお酒を飲んで、死んだように眠った。
もう百合さんと会えない日々が始まる。
あれから僕はバイトの時間を増やして、なるべく外に出て気を紛らわし、夜は友達と飲みに行く回数が増えた。
人と会って、飲んで酔っている間は何も考えなくていい。
どうでもいい話をしていれば時間が経つのを忘れた。
誰かが連れて来た女の子や、たまたまその場にいた女の子に声を掛けて、一回きりの関係になったりする事が何度かあった。
一回きり。
百合さんとも最初はそう思っていた。
それは百合さんのために、そうした方がいいと思ったからだ。
今は自分のために、気を紛らわすために、一回きりの関係を結ぶ。
何をしていても、誰と寝ていても、僕は空っぽだ。
一人で静かな部屋にいると、湧き上がる不安な気持ちに勝てなくなって、また友達を誘って飲みに行く。
僕はここから逃げたくて、卒業したら地元に帰る事を決めた。
百合さんと会わなくなって半年後、僕は大学の卒業が決まった。
学校から卒業を聞いた日に、実家の母に電話をする。
「おめでとう」
母は嬉しそうに言った。
地元に帰る事は伝えてあったので、しばらく使っていなかった僕の部屋は換気だけしておく、と母は言う。
卒業して地元に帰ったら、父の会社で働く。
前に一度実家に帰った時、両親ともきちんと話をしてあった。
「涼」
僕はぼんやりしていて、母と電話の最中であるを思い出す。
「あ、ごめん。何?」
「本当にいいの?」
「いいって、何が?」
「地元に戻って、こっちで働くっていう事でいいのね?」
確認するように聞く母に多少違和感を覚えたが、進路を安易に決めていないかという心配から来るものだろうと思った。
「うん、大丈夫。もう決めた事だし」
「そう。じゃあ帰ってくるの、待ってるからね」
母はそう言って電話を切った。
地元に戻るのを一番喜んだのは母だった。
僕の一人暮らしも心配していたし、息子が自分の見える場所に帰ってくるのが安心なのだろう。
全てが元通りになって、落ち着く場所に収まる。
これで良かったんだ。
僕はそう思った。
引っ越しのために部屋を片付け、部屋の中は荷物もほとんどなくなっていく。
僕は居酒屋のバイトを引っ越しの三週間前まで続け、バイトを辞めた後は引っ越しの準備をしたり、地元に帰って友達に会ったりした。
最低限の物を残し、引っ越しまで一週間をきった。
僕は転居届の手続きを忘れていたので、近くの郵便局へ行って手続きをした。
後はもう引っ越し当日を待つだけだ。
僕は歩きながら、もうすぐ離れる近所の道をぼんやり眺めた。
マンションに入り自分の部屋に向かう途中、ドアノブに小さな紙袋が掛かっているのが見えた。
中を覗くと、見覚えのあるTシャツが入っている。
百合さんだ。
僕は咄嗟にマンションを出て、辺りを見渡した。
誰もいない。
もう一度紙袋の中を見ると、Tシャツと一緒に、封筒に入った手紙がある。
僕は部屋に入るのも忘れて、急いで手紙を広げた。
涼ちゃん。
久しぶり。元気にしていますか?
今、直接顔を見て話すのはどうしても辛い。
でも最後に会った時、あなたを傷付けてしまった事をどうしても謝りたくて、手紙を書く事にしました。
もう会わない、と言ったのは涼ちゃんの為じゃない。
私は自分が辛い思いをするのに耐えきれず、そう言いました。
本当にごめんなさい。
この先もあなたがこの街に住んで、私と会い続けたとしても、私は結婚したまま子供を育てる生活を選ぶ。
誰がどう聞いても、幸せな関係ではありません。
一緒にいる間は幸せを感じられても、どこか後ろめたい気持ちが常にある。
人に言えない関係がこんなに辛いものとは、私は知らなかった。
あなたの事が好きになればなるぼど、辛い気持ちが積み重なっていきます。
もう一度、十代の頃に戻れたらいいのに。
そしたら私は初めて寝る人が、涼ちゃんになるのに。
あなたが優しく私を抱く度に、よくそう思っていました。
実際に初めて男の子と付き合ったのは、十六の夏です。
その頃あなたは六歳。今の葵と変わらない歳です。
どう頑張っても縮む事のない年の差も、一緒にいる時は思い出しもしないのに、一人になったら考えてしまう。
最初に会うようになったばかりの頃、涼ちゃんは遊びで私と関係を持っているのだろうと思っていた事もありました。
期間限定の、終わりが決まっている関係。
年上で既婚者の自分とに、未来なんか見る事もないはず、と。
でも違った。
あなたの目に映る私は、既婚だろうが年上だろうが、そんな事は何も関係なかった。
二人で一緒にいると、私は自分がそこにいるのがはっきりと感じられる。
自分のどんな感情も、私は手に取るように見る事ができました。
そんな事は初めてで、私はくすぐったいような体が浮くような、そんな感覚でした。
今まで知らなかった幸せを、あなたと会う時間ができてから知ってしまったのです。
ついこの間、バイト先の居酒屋に行きました。
私は遠い親戚で、お土産を持ってきたから渡したいと嘘を言って、あなたがどうしているか少しでも聞こうとしたのです。
あの時傷付けてしまった後、どうしているか様子だけでも聞きたかったから。
涼ちゃんのいないお昼の時間帯を狙って行ったのに、あなたは辞めた後だった。
大学を卒業して、地元に戻る事にしたんだね。
私はそれが一番いいと思います。
最後に会った時の涼ちゃんの悲しそうな顔が、今でも忘れられない。
私は自分に向けられるあなたの気持ちが重たい、なんて一度でも思った事はありません。
最後に仕事帰りの道で会った時、あなたの顔を見た瞬間、私を迎えに来てくれたんだと飛び付きたくなるほど嬉しい気持ちになりました。
涼ちゃんから、どうして会ってくれないのかと言われるまで、もう会わないと決意したはずの自分を、一時忘れていたのです。
私は涼ちゃんという存在が怖くなりました。
私の毎日に溶け込み過ぎている。
あなたが私を愛してくれる存在だという事を、当たり前のように受け止めてしまっている。
あなたに幸せな気持ちにしてもらえる事に、慣れすぎてしまったのでしょう。
会わなくなってから毎日のように、涼ちゃんの部屋や、他愛のない話をしながら一緒に食べたお昼、屋上から二人で見た景色や、温かいベットの中を思い出します。
一緒にいた時間は、思い出すと苦しくなるくらい幸せでした。
苦しいのは何ででしょうね。
もう戻って来ない時間だから?これから先には作れない時間だから?
こんなに誰かの事を考え続けてしまうなんて、今まで生きてきて初めてです。
苦しくて苦しくて、忘れる事ができたら楽なのに。
思い出してしまうのはどうしてでしょうね。
涼ちゃん、覚えていないかもしれないけど、初めて飲み会であなたと話した時、私はあなたに夢は何ですか、と聞かれました。
夢?子供じゃないんだから。
何でそんな事聞くの?
私は一瞬そう思ったけど、大人が夢をみたら駄目なんて、別に決まっていない。
私は今の自分の生活に、夢なんて考える暇もなかった。
朝起きてから夜眠るまで、毎日の家事や仕事や子供の事で精一杯。
あの時、涼ちゃんにそう聞かれてから今でも、自分の夢って何だろうという思いが頭から離れません。
結局、猫を飼うなんてありきたりな事を言ったけど、きっと他にもあったはずです。
上手く言えないけど、私は自分で全てを選んでみたい。
自分で住む場所や、やってみたい仕事、一緒にいたい人を選んで、穏やかに暮らしたい。
夢というにはあまりに地味過ぎて、自分でも笑えます。
でも今の私が望む事といったら、それくらいの事なのです。
私にはこれからも、涼ちゃんがいない、長い長い毎日が待っています。
この先、あなたは社会に出て仕事を持つようになって、何年か経ったら結婚して可愛い奥さんがいるかもしれない。
子供が産まれて、いいお父さんになってるかもしれないね。
またどこかで会う事があれば、その時はあなたの目を見て話をする事ができるといいなと思っています。
涼ちゃん、またどこかで会いたい。
今は顔を合わせるのも辛いのに、そんなふうに思います。
短い間でも一緒に過ごせて幸せでした。
涼ちゃん、ありがとう。元気でね。
読み終えてようやく僕は、百合さんともう会えない事が現実なのをはっきり思い知った。
ほとんど空っぽになった部屋に入った途端、泣き崩れる。
部屋を見ると思い出してしまう。
あの小さなキッチンに立つ百合さん、一緒に作った料理のいい匂い。
テレビの前でクッションを抱き、僕に寄りかかって画面を見る眼差し。
二人で眠るには狭いシングルベット。
昼の明かりの中で見る、子供みたいな寝顔。
今でも隣にいるかのように、触れた肌の感触まで思い出す。
会わなくなっても、この街にいたら探してしまう。
偶然会った時に、初めて交換した連絡先。
またどこかで会うかもしれない。
この街で生活していくなんて無理だ。
僕は地元に戻る選択をした自分を、ようやく受け入れた。
もうこの街には戻らない。
僕の顔を見て困る百合さんを見たくない。
早くここを去らないと。
僕は手紙を握りしめたまま、涙が出なくなるまで動けなかった。
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