第1章

1/1

37人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

第1章

ベットの中で目を閉じていても、涼ちゃんが部屋のカーテンを開けたのが分かった。 意識ははっきりしているので、何も見えていなくても光を感じる。 ゆっくり目を開けるとすぐに窓の外が見えた。 窓の外には植え込みがあり、一応目隠しになっているものの、窓枠と植え込みの隙間から空が見える。 意味もなく眺めてしまうほど、雲ひとつない青い空だ。 こんなにいい天気だと、葵は午前中に園庭で遊んだかもしれない。 こども園に通う娘の葵が、砂場でスコップやバケツを使って遊んでいるのをイメージしながら、青い空をしばらく眺めた。 今日はベランダに干してきた洗濯物も、陽の匂いを吸い込んでよく乾いているはずだ。 もう一度目を閉じると、昼下がり特有のまどろみが訪れて、ベッドから出られない。 木曜日、午後二時。 さっきまで隣で寝ていた涼ちゃんは、起きてから自分だけカップラーメンを作って食べ始めていた。 シーフード味のラーメンの匂いが部屋に漂う。 若いからすぐにお腹が空くのだ。 私はこんな中途半端な時間に食べられない。 三十路過ぎたあたりから、私はカップラーメンに美味しさを感じなくなった。 カップラーメンを食べるくらいなら、袋のラーメンを食べる。 自分で野菜でも切ってから、鍋に入れて作れるからだ。 子供も喜ぶ。 ハンバーガーチェーン店の前は通るだけで油の臭いがして胸焼けするし、添加物や着色料たっぷりのお菓子も苦手になった。 娘が産まれてから、家の食事が薄味になったせいもあるかもしれない。 私が今日ここに来てからずっと付けっぱなしのテレビでは、動物もののドキュメンタリーが流れていた。 ナレーションが流れる中、スタジオでその映像を見ているタレントが時々画面上のワイプに映る。 涼ちゃんはベッドのすぐ近くにあるテーブルでラーメンを食べながら、私はベットの中からテレビを眺めていた。 猿の群れが画面に映し出されている。 群れの中で子猿が、心許なくうろうろしていた。 本来ならまだ母猿にくっついている時期だか、母猿はいないようだ。 なぜいないのかは、初めから番組を見ていなかったので分からない。 番組はその子猿をメインに映したドキュメンタリーだった。 群れの中で、時々子猿を気にかける大人の猿がいるようだが、それは気まぐれだ。 子猿は結局独りぼっちになる。 「小さい。可愛いなぁ。ぬいぐるみが歩いているみたいだ」 涼ちゃんがラーメンを食べながら呟く。 確かに子猿は可愛いが、小さな娘がいる私は独りぼっちの子猿を見ていると、ちくちくと胸が痛む。 猿の群れは人間が餌を撒く時間に降りて来て、一斉に食事を始める。 子猿は餌を撒かれても、大人の猿たちに気圧されて僅かな量しか食べれなかった。 「百合さん、これありがとう」 涼ちゃんの声で、一旦テレビから視線が外れた。 彼は瓶に入ったピクルスを、瓶ごと両手で包み込むように持って、私の方を見ている。 私はテレビに視線を戻しつつ、何も言わずにうなずいた。 一人暮らしの涼ちゃんが、野菜をあまり食べていないというので、今日家の冷蔵庫にあったのを持ってきてあげた。 ミニトマトや胡瓜、かぶや人参を一口大に切って、煮沸した瓶に入れる。 ある程度保存が効くピクルスだ。 野菜を切って専用の液を入れただけ。 「日持ちするから、冷蔵庫に入れて好きな時に食べれば?」 私がそう言うと、涼ちゃんは胡瓜を食べながら何回かうなずいて 「うまっ」と独り言のように呟いた。 ぽりぽりと胡瓜を噛む、小気味良い音が聞こえる。 テレビの中では、子猿が大怪我を負っていた。 何か争いに巻き込まれたか、高い場所から落ちたのか、おでこから血が出ていてぐったりしている。 やっぱりあんな小さな体では、群れで生きていくのが難しいのかもしれない。 今にも息絶えてしまいそうな虚ろな子猿の顔を見ると、私は余計に胸が痛んだ。 私はテレビから目を逸して、ベッド近くのテーブルの端に置いてある、涼ちゃんがいつも吸っている煙草の箱に手を伸ばした。 黒い箱のメンソール。 普段は吸わないが、ここに来た時だけ時々もらう。 肺まで吸い込まずに、口の中で煙を味わうだけだ。 涼ちゃんがピクルスをつまみながら、私の近くに灰皿をそっと置いた。 子猿は餌をあげている人間たちによって手当を受け、元気になったようだ。顔にも生気が戻り、哺乳瓶からミルクを飲んで回復していた。 でも元気になったら、また猿の群れに戻される。 ずっと人間といるわけにはいかないのだ。 涼ちゃんも私も、さっきよりテレビに見入っていた。 子猿はこれからどうなるのだろう。 群れに戻されて数日後、メスの猿が一匹、子猿の元に駆け寄る。 少し前に、自分が産んだ子猿を亡くしたメス猿のようだ。 メス猿はまだ怪我の跡が残る子猿を抱き寄せると、人間に威嚇し始めた。 子猿を守ろうとしている。 子猿は戸惑いながらも、メス猿に抱き寄せられてからしばらくして、母乳を飲み始めた。 画面が切り替わり、それから三日後の様子が映る。 あれからもメス猿は子猿を離すことなく、守り続けているようだ。 二匹の様子が画面にアップで映し出された。 メス猿は群れの中で子猿を抱き締めたまま、目を閉じてじっとしている。 私はなぜか彼女の表情を見て軽く戸惑いを感じ、少し目を伏せた。 直視できない。 あまりにも強く、美しい顔をしていた。 亡くした子供が戻ってきたかのような、安堵の色もそこに浮かんでいる。 その顔は、抱きしめた子猿とこれから本当の親子として生きていく、決意に満ちていた。 テレビ画面のワイプに映るタレントが涙を流している。 女優も芸人も、目を赤くしてハンカチで押さえていた。 ふと涼ちゃんを見ると、ボロボロ涙をこぼして鼻をかんでいる。 すぐにティッシュでゴミ箱がいっぱいになった。 涼ちゃんを見ていると、泣くのも笑うのも、一瞬で涼ちゃんの顔から溢れてこぼれるようだ。 私はいつもそれを、ちょっと可愛いな、と思う。 鼻をかみ終えた涼ちゃんは、カップラーメンの空容器をキッチンに持って行った。 空容器を軽く洗うとゴミ箱にいれて、そのままシンクで口の中をゆすぎ始める。 ブクブク、ペッ。 私は無意識に頭の中で涼ちゃんが口をゆすぐ回数を数える。 一回、二回、三回、四回、五回。 最後に顔も洗って、タオルでごしごし拭いている。 男の人はどうしてあんなに力を入れた拭き方をするんだろう。 痛くないのかな。 家でも毎朝、洗面所にいる夫を見て同じ事を思う。 「百合さん、まだいいでしょ?何時まで居てくれる?」 涼ちゃんはベットに潜り込みながら、私の耳元でそう言った。 スマホを見ると、葵を迎えに行くまで二時間程ある。 私が時間を告げると、涼ちゃんは「やったぁ」と嬉しそうに呟き、ゆっくり私に覆いかぶさると優しくキスをした。 目を閉じると、さっきテレビで見た母猿の表情が目に焼き付いていて離れない。 私は葵を抱き締めている時、どんな顔をしているだろう。 あんな母猿のような強くて美しい顔には、きっとなっていない。 どんなに葵が可愛いくて愛おしくても、頭の中には子育て以外の思いがあれこれ詰まっている。 目を開けた瞬間、涼ちゃんと目が合う。 私は開けっ放しのカーテンを気にするように目をそらした。 「閉めた方がいいかな」 私がそう言うと、涼ちゃんはさっと窓に駆け寄ってカーテンを閉じた。 「いい天気なのに外には誰もいないね。こんな日に部屋に閉じこもるのは勿体ないなぁ」 涼ちゃんは窓から見えた外の様子を私に告げて、またキスをする。 天気がいいから外に行こう。 涼ちゃんとは絶対そんな事にならない。 十歳も歳が離れていると、他人からみた私たちはどう見えるんだろう。 恋人にも見えないし、姉弟にも見えないだろう。 でもどっちでもないから、私は気にならない。 時間を掛けて抱き合った後、少しうたた寝して、気付くと四時前になっていた。 さっきシーツにぽたぽた落ちるのが見えた、涼ちゃんの汗。 目を凝らすと、雫の落ちた跡がうっすら見える。 布団やベット全体がしっとりと温かい気がして、まだここに入っていたい気持ちになる。 掛け布団に潜って息を吸い込むと男の子の匂いがして、私は何となく自分が高校生だった頃を思い出した。 あの頃は、こんな生活をする自分を想像もしなかったけど。 四時半から五時の間に葵を迎えに行く事になっているので、ベットの近くに脱ぎっぱなしだった服を着て、帰る支度をする。 「じゃあ、またね」 ベッドの中で寝ているのか起きているのか分からない涼ちゃんに声を掛ける。 返事がないけど、私は黙って部屋を出た。 電車に乗り、しばらく歩いてこども園には四時四十分頃着いた。 玄関から入り、葵がいる『ほし組』の部屋まで歩く。 入り口近くはまだ葵より小さな子供のクラスの部屋だ。 つき組、にじ組。 顔見知りの先生やママさん達に会釈しながら向かう。 「こんにちは」 部屋の入り口で、担任の先生に声を掛けた。 「こんにちは。葵ちゃーん、お迎えだよ。帰る準備しようか」 先生の周りにはたくさんの子供が駆け寄っていて、口々に何か言う。 先生は順番に一人ずつ対応していて、忙しそうだか穏やかな顔をしていた。 保育士になって何年も経つ、ベテランの先生だ。 「ままー」 帰る準備を終えた葵が私に駆け寄る。 私は小さな葵の手をとり、先生に挨拶をすると玄関に向かった。 「今日のねー、おやつ、おだんごだったんだよー」 葵は廊下を歩きながら、私に一日の出来事を話し始める。 「そう。お月見の季節だからかな?」 私が言うと、葵は分からない、という風に曖昧な顔をした。 「わたし、よく噛んでたべた」 葵は靴を履きながら言う。 喉に詰まらないように、おやつを食べる前に先生が子供たちに言ったのかもしれない。 よく噛んで食べましょう、と。 お団子の味の感想より、先生の言い付けを守ったことを報告する葵が可愛くて、私は笑う。 笑う私を見て、葵も嬉しそうな顔をした。 こんな幸せな時間は、子供がいなかったら味わえない。 こども園から自宅まで、歩いて十分程で着く。 家から近いこども園に入る事ができてラッキーだったな、といつも思う。 「ただいまー」 家に帰ると、いつも通り葵は玄関から大きな声で言った。 「お帰り」 リビングから義母の声がする。 葵はリビングに入ると、ソファに座ってテレビを見ていた義母とハグをする。 毎日の習慣だ。 「只今帰りました」 私が言うと、義母は葵を抱きながら「お帰りなさい」と言った。 結婚と同時に、夫の実家で義母と同居し始めて七年経つ。 夫は一人っ子だし、広くて大きな田舎の持ち家に義母が一人暮らしだから、という理由で始まった同居だが、私は未だに息苦しさを拭えない。 夕方の五時近く。 冷蔵庫から夕食に使う食材を出して、テーブルに並べた。 使う順に手に取り、支度を始める。 「そうそう、百合さん」 義母が冷蔵庫の隣にある、食器棚の中を眺めながら私に声を掛ける。 「はい」 私は人参の皮を剥きながら返事をした。 「ここにあった瓶、どこにいったか知らない?ほら、煮沸できる、分厚くて丈夫な銀の蓋が付いたやつよ」 義母は食器棚の奥まで覗き込みながら言った。 今日涼ちゃんの所に持って行った、あのピクルスを入れた瓶の事だ。 私は人参を剥く手を止めずに 「さあ、使ってないので知りません」 と言った。 普段料理しない義母が、台所にあるものを使おうとしているのは珍しい。 私は微かに苛立ちを感じながら人参を乱切りにする。 「今日、吉川さんから生姜をたくさん頂いたのよ。生姜は水に漬けて瓶で保存するといいんですって。あの瓶が丁度いいと思ったんだけど」 義母が冷蔵庫から袋に入った生姜を出して見せた。 吉川さんというのは二軒隣の家に住むご近所さんだ。 義母と歳が近く、旦那さんと二人暮しをしている。 顔を合わせると、家の中のことをあれこれしつこく聞いてくるので、私は吉川さんが大嫌いだった。 義母に見せられた生姜の袋を一瞥してから、私は黙ったまま料理を続けた。 もらい物の管理はもらった人がすればいい。 私が無言で料理を続けているので、義母は話すのを諦めてソファに戻った。 テレビは葵が子供向けの教育チャンネルに変えたので、義母も一緒に見始める。 あの瓶はもうここに持って帰らないでおこう。 別になくても困らない。 ずっと食器棚で眠っていた瓶だ。 じゃがいも、しめじ、きゃべつ・・今夜のポトフの材料を切りながら、涼ちゃんがピクルスを食べ終わった後、瓶を捨ててもらおうと考える。 切り終わった材料を鍋に入れて火にかけた。 「ままー、なに作ってるの?」 葵が側にきて私を見上げる。 私は葵を抱き上げて、鍋の中を見せた。 「このスープ、食べた事あるでしょ?じゃがいもが入ってておいしいよ」 私が言うと、葵は前に食べたのを思い出したように 「ウインナーは?タコさんにして」 と言った。 私は入れ忘れていたウインナーを足した。 葵のためにタコさんにした分も入れる。 もう一度葵を抱き上げて、しばらく鍋の中を二人で眺めた。 鍋の中で踊るタコさんを、葵は満足そうに見つめている。 「ただいま」 私と葵はほぼ同時に振り返った。 夫がリビングに入ってくるのが見える。 「お帰りなさい」 「ぱぱ、おかえりー」 葵の弾むような声で、夫は疲れた顔から気が緩んで柔らかな顔になる。 穏やかで幸せな毎日を壊さないようにしないといけない。 こんな瞬間、私は強くそう思う。 葵のためだ。 葵が大人になって幼少期を思い出すことがある時、それは温かいものであって欲しい。 「今日のメニューは何かな?」 夫は自分の足にしがみついていた葵を抱き上げると、私の背後から鍋を覗き込む。 私は黙ったまま、鍋をかき混ぜる。 「タコさんは葵のだよ」 葵はそう言うと、夫から離れてテレビの前に走って行く。 「何か煙草の匂いする」 夫が小さな声で呟くのが聞こえて、私の鼓動は微かに早くなった。 夫は煙草を吸わない。 「そう?」 私は鍋を見つめたまま、匂いをかぐふりをした。 「そういえば仕事の帰り、店長に呼び止められて話した。あの人、スタッフルームではいつも煙草吸いっぱなしだから」 私が働いてるレストランの店長がヘビースモーカーなのは本当だ。 帰りしなに呼び止められて、話しをする事もよくある。 でも今日は仕事が休みだったから、今私の口から出た台詞はすべて嘘だ。 「飲食店なのに、大丈夫なの?ヘビースモーカーって」 夫は少し笑いながらそう言うと、ネクタイを緩めて着替えるためにリビングを出た。 ポトフの具材に火が通る間に、白身魚のフライを作る。 葵の分は少し小さめの切り身にして、衣を付けて揚げる。 身が柔らかい魚なので子供でも食べやすいはずだ。 付け合せは手で千切ったレタス。 私はしばし無心になって料理を続ける。 「ご飯できました」 私がリビングの葵と義母に声を掛けると、二人揃った返事が聞こえた。 葵は夫を呼びに二階に行く。 四人揃って食卓を囲む。 私はテーブルの真ん中に鍋敷きを置いてから、お代わりできるように大きめの鍋に入ったポトフを置く。 鍋からのぼる湯気が、食卓の灯りで柔らかく見えた。 「いただきます」 葵は自分専用のスープカップを眺めてにこにこしている。 「待って、葵」 私は簡単に挟めるタイプのヘアピンを、ポケットから出した。 葵は最近髪が伸びてきたので、食事の時に髪が口に入りそうになる。 さらさらとした細い髪をそっと手に取り、落ちないようにしっかり挟む。 小さなうさぎの飾りが付いた、子供用のヘアピンだ。 「うさぎさん?」 葵は手で触って確かめるように、私に聞いた。 「そうだよ。取れちゃうから、あんまり触らない方がいいよ。さ、食べて」 私はスプーンを葵の前に置きながら答えた。 「葵ちゃん、可愛いねー」 義母が目を細めてヘアピンを褒めたので、葵は誇らしそうに笑った。 温かいポトフを食べているせいで、葵の白い頬が蒸気してピンク色になっている。 私はヘアピンから落ちていた僅かな髪を小さな耳に掛けて、柔らかな頬にそっと触れた。 私のたった一人の、大切な子供。葵。 葵が大きくなるまでは、この家で暮らしていこうと思う。 今から引っ越すとなると、葵も住み慣れた家や、可愛がってくれる義母と離れる事になるので、それは少し可哀想な気がする。 そう考えると私がこの家にいる理由は、葵のため以外には何もない。 仕事がある日もない日も毎日、夕方になるとこの家に帰る時間が、日に日に憂鬱さを増していく。 無駄に広い部屋や、見栄だけで作られたような庭。 大きな家に住んでいると羨ましがられる事もあるが、私はここが自分の家だと思った事は一度もなかった。 住む家というのは年月を重ねれば愛着が湧くものでもないらしい。 同居を始めてから七年掛けて、私はこの家が嫌いになった。 「まま、じゃがいも、おいしいねー」 葵は自分の席からは見えない鍋の中を覗き込もうとする。 「まだあるよ。入れてあげる」 私はお代わりを葵のカップによそって、冷ましながら食べる葵をしばらく眺めた。 葵。 あなたには自分の思うように生きて欲しい。 何にも縛られず、自由に。 そんなふうに生きていける大人はいないんじゃないかと思いつつも、葵にはそれを望んでしまう。 夕食後は食器を洗って片付け、お風呂を沸かし、葵と二人でお風呂に入る。 寝る準備を整えて、葵は九時前にはベッドに入り、眠りにつく。 しばらくテレビを見て、十時になる頃には私も寝る事にした。 「おやすみ」 リビングでテレビを見ながらビールを飲む夫に声を掛けて、寝室に向かった。 布団に入って目を閉じると、今日の昼間にベットから見た、涼ちゃんの後ろ姿が頭に浮かぶ。 少し癖のある、黒い髪。 初めて会った頃より伸びている。 首元に残るひげの剃り残し。 こんな関係になっているのに、ああ、そうか男の人なんだ、と改めて思う事があるのはどうしてだろう。 歳が離れているせいかな。 涼ちゃんはカップラーメンを食べながらテレビを見ていて、私の視線には気付かない。 涼ちゃんに好きな人や彼女が出来たら、私は直ぐにでも会うのをやめるつもりだ。 こんな関係が長く続く訳がない。 会うのをやめたら、こうして寝る前に涼ちゃんを思い出す事もなくなるだろう。 あのピクルスを入れた瓶も、中身がなくなってゴミの日に出してしまえば、最初からあの部屋になかったのと同じになる。 いつか私が涼ちゃんの部屋に行かなくなって、そのうち時間が経って思い出す事もなくなって、この関係は最初からなかった事になっていくのだろうか。 私はそれが寂しいという気持ちにはならなかった。 いつか終わりが来る逢瀬。 涼ちゃんだって分かっているはずだ。 「··ふふっ」 近くのベットで眠る葵が、小さく笑い声を上げて寝言を言っている。 楽しい夢を見ているのだろう。 私は温かな気持ちで眠りについた。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加