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「おじいさん、よかったわねえ。生きてる内にあの子に逢えて。…その上、おじいさんお気に入りの北斗君だったなんて」
ばあちゃんがやんわりと声をかけ、柔和な笑顔を成瀬に向けた。
「北斗君、本当にありがとね。おじいさん、犬を預けたままだった事、ずっと気に病んでたの。すぐ迎えに行くつもりで約束したのに、瑞希が中々立ち直れなくて……」
「当然ですわ。私だって…未だに信じられないんですもの」
振り返り墓石を見たおばさんが、思い出したように腕に抱えていた花束の包装紙を解いて広げ、左右の花筒用に半分ずつ分ける。
「突然だったからねえ」
ばあちゃんも側に行き、活けるのを手伝いながら呟いた。「…でも、これ以上世話かけられないって、六月の瑞希の誕生日前に、引き取りに行ったんだけど、一人で帰ってきて…『離婚して引っ越したらしい』って」
「ええ。あの後、私達にも色々あって、…ですが、北斗があの場所を離れたがらなくて、隣の駅の近くにアパートを借りたんです」
「そうだったの。…あの時のおじいさんの落ち込みようったらなかったのよ、『あんな小さい子供との約束を破ってしまった』って」
ばあちゃんの話を聞いて、おばさんが首を傾げた。
「あの、新しい住所をポストに入れておいたんですが…」
「さあ、気付かなかったなぁ。…もしかして百合が悪戯したのかもしれませんな、成瀬君が寂しくないように、まだ犬を迎えに行くのは早いと思って、隠したのかもしれん」
その冗談に、おばさんが相槌を打った。
「ふふ、百合ならしそうですね。本当に…ランディーのおかげで、北斗がどれだけ慰められたか……。いくら感謝してもしきれませんわ」
大人達の話の中で過去と現在が少しずつ繋がっていく。
一言も聞き漏らさないよう会話に集中していると、おばさんの言葉で思い出したのか、じいさんが誰へともなく尋ねた。
「そういえば瑞希に聞いた、成瀬君の『忘れられない子』というのは、結局瑞希の事だったわけか?」
まだショックから立ち直れないのか、自分に関する事を問われた成瀬が、精彩を欠く表情で目を瞬いて俺を見た。
「ああ、あの噂……」
小さく呟くと、少しだけ考え込んだ。「……そういう事になるのか」
今まで、自分の事はほとんど話さなかった彼が、初めてその胸中を明かした。
「――あの頃、両親の仲が何となく悪くなって、家にいるのが嫌だった。みーちゃん達と会った時だけ、俺や母さんに笑顔が戻った。みーちゃんの家族は、四才の俺の全てだったんだ。それが…あの日、突然消えてしまった……」
俯きがちに話す声が沈み、すぐに上げられた視線の先にはじいさんがいた。
「でもおじいさんが希望を残してくれた。さよならは言ったけど、ランがいる限りいつか必ず会える、そう信じてたんだ。けど、人の死について理解できるようになって…気が付いた。呼びかけても眠ったままで、頭の包帯と…酸素マスクを付けた姿が、目に焼きついていた俺には、おじいさんがランを迎えに来ない事実が、何よりの証になった」
「北斗、あなた……瑞希君、死んだと思ってたの?」
驚いて声をかけたおばさんに、成瀬が――頷いた。
「だから、話を避けた。本当の事なんて聞きたくない、もう二度と会えないんだ…って」
苦い笑みを浮かべ口にしたのは、ここに居合わせた誰も……思いもしなかった、幼さ故の哀しすぎる誤解だった。
成瀬は、俺を覚えていた。
幸せな思い出と深い絶望を、心の奥にしまい込んだまま…。
ランディーを預かったせいで、忘れることもできず苦しんだんじゃないのか?
そんな不安を払拭するように、成瀬が再び口を開いた。
「それからは、ランディーが支えだった。だってあいつ本当にいい奴なんだ。だから年を取って弱ってきたのがわかって、不安で堪らなかった。こいつまでいなくなったらって。そんな時吉野に会ったんだ」
俺……。ホームセンターの事? それとも、桜並木の?
だけど、その予想はどちらも外れていた。
「母さんが再婚するかもしれないと知って、入学式の日、父さんに別れを言いに行った」
「え、どうして――」
その行動にも戸惑ったみたいだけど、それよりも店長との仲を息子が察していたと知り、おばさんの頬が僅かに染まった。「……そんなに早くから気付いてた?」
恥じらう母親に「当たり前だろ」と言いたげに、成瀬がふわりと微笑んだ。
「野球も辞めて…本当に何もなくなってしまった帰り道、吉野が電車に乗ってきて、一目ですごく惹かれた。自分でも驚いたけど、あんなに誰かに惹かれた事ってなかった」
その告白に、俺もびっくりした。
「ウソ! 噂を聞いて、こいつだって確認しただけじゃなかったのか?」
すると緩く首を振り、
「いや、…それだけじゃなかったな」
半年前を懐かしむように、日差しの遮られた空を見上げる。
そんな成瀬を目で追いながら、全身を妙に切なく、温かいものが駆け抜けた気がした。
……本当に俺を見つけてくれたんだ、生きてるとも知らずに。
「――その後、ランディーのおかげですぐ打ち解けて、俺…変わった。もう一生、止まったままかもしれないと思っていた心の時計が動き始めた、そんな気がした。何でこんなに俺の中に入ってくるのか、俺と響き合うのか、ずっと不思議だった。けど、みーちゃんだなんて全然……思いもしなかった」
当然だ。だって俺も、あんなに逢いたかったのに少しも気付かなかった。
何も考えられず、夢うつつの気分で突っ立つ俺の隣で、
「…あれ? もしかしてあいつ……ランディーは覚えてた? まさか……」
ぼそっと呟いた成瀬の、予期しなかったその疑問に、思い当たるふしが……あった!
「あ!〝吉野探知犬〟か!?」
思わず顔を見合わせた。「…なんだ、そうだったんだ。ちょっと信じられないけど、あの販売機の所で俺を感じて、それで後を追いかけてくれた? あれは襲ってきたんじゃなくて、じゃれてたのか」
ランディーが引き起こした川土手での出会いは、偶然なんかじゃなかったんだ―――。
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