夢をその手に

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「ごめんなさい! ごめんなさい、あなた」  外の喧騒が嘘のように静まり返ったリビングで、最初に口を開いたのは、意外にも『幸子』と呼ばれた彼女だった。 「―去年の、北斗さんの活躍を、…新聞を何度も読み返すあなたを見て、不安になったの」  その顔色は今にも倒れそうなほど悪い。  だけど、震える声で事実を打ち明けてくれた。 「こんなに素敵な子供だもの、このままだとあなたはいなくなってしまう、そう思ったら堪らなくなって、北斗さんに会いに行った。『野球を辞めて…私達の前に姿を見せないで』って頼んだの。でも、本心じゃ――」 「なかった」と言いかけて、力なく笑い、首を振った。「……違う、本心だった。誰かに叫ばなければ、気が変になりそうだったの。……本当にごめんなさい」  彼女の話を聞いて、絶句するおじさんを見た俺は、成瀬が必死に隠していた想いを、この時ようやく理解した。  喫茶店での事、おじさんには絶対、知られたくなかったんだ。  幼い頃の両親の離婚が、今も彼の心に暗い影を落としている。  自分のせいで、今度はこの二人の仲がこじれるのを恐れ、それを避ける為に、誰にも言えず諦めていたのか……。  俯いたまま唇を噛み締め黙っている成瀬の横顔に、そっと目を遣った。  ……よけいな事だった? 放っておいたほうが……  でも、そしたら成瀬は―――。  自問自答する俺の脳裏に、さっき掠めた記憶の断片が、確かなビジョンとなって浮かび上がってきた。  おじさんの前で、怯え…震える彼女の姿、――それは俺が悩み、苦しんだ時と同じだ。  成瀬と出会う前の……和彦が尋ねてきた時の、俺と同じ。  本当は弱くて臆病で、優しい人なんだ。ただ、辛くて…苦しすぎて、俺と同じに逃げただけだ。  おじさんに向かわず、成瀬に逃げてしまっただけ。  そして俺も…その事がわからず、一方的に彼女を非難していた。  悪い人なんてどこにもいない。  ただ時々、想いがすれ違ったり、誤解したりするだけなのに、どうしてこんなに傷ついたり、傷つけたりしてしまうんだろう……。  ――人間、だから? …だからまた、やりなおすこともできるのか?   だとしたら、俺はこの人達を信じたい。   「あなたの不安や哀しみが本物だったから、こいつは辞めてしまえたんです。上辺だけなら簡単に諦めたりしない。そうだろ、成瀬」  野球を取り戻したかっただけなのに、彼女を傷つけ、成瀬までまた苦しませている。  自覚したその思いが彼女を庇う言葉になり、何故か自然に成瀬に話しかけていた。  この場にいる皆の視線が、たった一人に向けられる。  それを受けた彼が、固く握り締めていたこぶしをほどいて、やっと…本心を口にした。 「――父さんを愛してる人の想いを…あの日初めて知った。離婚の理由なんか誰も教えてくれなかった。だから、それまで父さんは一人だと思ってたんだ」  それを聞いたおじさんが驚いたように瞬きを繰り返した。 「父さんの……今愛してる人が目の前で哀しんでる、…俺が野球をやることで苦しめてる。……そう思ったら、野球なんか本当にどうでもよくなった、吉野と出会うまでは。だけどお前が、プレーしてるところ見たいって、言ってくれた。山崎やチームの皆も、俺が帰ってくるのを待ってるって。……同級生が、ただの草野球で一生懸命ボール追うの見て、苦しくて堪らなくなった。俺も思い切りグラウンドを走りたい! そう――」  言い終わらない内に、幸子さんがいきなり駆け寄ってきて、成瀬を抱きしめた。 「ごめんなさい! こんな優しい子を苦しめていたなんて、…いいの、野球してちょうだい、思いっきり。あなたが有名になったら、『私の愛する人の息子よ』って…自慢する。だからお願い、私を許して…。あなたの友達が言ったわ、『人として失格にはなりたくない』と。…私も同じ、許してもらえなければ、人として失格だわ」  胸に顔を伏せ、謝る幸子さんの耳元に、成瀬が呟いた。 「許して欲しいのは俺の方だ。ごめん父さん、幸子さん。二人を苦しめるかもしれないってわかってても…俺、野球やりたい」  彼らしい返事だった。  優しく、思いやりに溢れた、でも自分の意思を貫く言葉―― 「……馬鹿だな、苦しんだのは北斗だろ? あんなに魅せるプレイする奴が、簡単に野球辞められるはずないだろ。…幸子にも悪かった。どうも…一番の原因は俺のようだ」  あえて呑気に頭を掻き、自分の行動を反省するおじさんに、心から安堵した。  成瀬の胸中を察してから、それだけが心配だった。  だけどおじさんはわかってくれた、だって成瀬の父親だ。  幸子さんとも…大丈夫だ。  その彼女が成瀬から離れ、おじさんに向き合った。 「……ありがとう、あなた。気付いてたの、本当は北斗さんが愛しかった。初めて会った時、彼の中にあなたと同じ、私が惹かれ求めたものを強く感じて……甘えてしまったの。酷い事を言って、北斗さんを傷つけた……」  幸子さんの告白に、成瀬がいたわりとも取れる眼差しで首を振った。 「大丈夫だよ。俺は少しも傷ついてなんかいない、自分で決めた事だ。でも、まだ子供だから選び方を間違って、出口のない迷路に迷い込んでしまったんだ。――それに気付かせて、外に連れ出してくれたのは、吉野だ」  そう言って振り向いた瞳は、初めて会った時と同じ、迷いのない強い光を宿していた。 「ありがと、吉野。孝史の言った通りだ、俺もお前のその行動力、尊敬する」  ……俺のした事、間違ってなかった?   他人の心に土足で踏み込むような真似をした俺を、許してくれるのか?  ためらいながら見返す俺に、成瀬が笑いかける、それだけで十分だった。  ほっとした途端緊張が緩み、張り詰めていた糸が――切れた。  彼の笑顔が、驚きと戸惑いに変わる。  だけど、溢れる涙を止める事ができなかった。 「――吉野……」  困ったように俺を呼び、伸ばされた指先が髪を梳き上げ、そのまま優しく頭を撫でる。  その仕草が小さな子供をあやすみたいで、でも何故か無性に懐かしくて……嬉しくて、いつの間にか涙が微笑みに変わっていった。 「……じゃあ俺も…少しはお前の役に立てたかな、…今まで散々迷惑かけてたから。よかったな成瀬、俺も……嬉しい」  本当によかった。でも、これだけは。 「ありがとうございます、おじさん、幸子さん」  シャツの袖で涙を拭い、二人を真っ直ぐに見た。「それから…ごめんなさい。俺も、幸子さんに酷い事…言った。許して下さい」  頭を下げた目の前に、ほっそりとした白い手が差し出され、俺の手を握り締めてきた。  びっくりして顔を上げると、幸子さんの潤んだ瞳と目が合った。 「――あなたにも、ありがとう。この一年、苦しかった。あなたの…素直な心と勇気に……友達を想う優しさに、私も救われたわ」  思いがけない言葉に、俺の方が救われた。  ―――傷ついても傷つけても、苦しむのは同じ?   だけど、それを恐れて、人との関わりを無くしたくはない。  だって、相手の痛みは自分が身をもって感じないとわからない。  これから先、もう二度と、自分の殻に閉じこもって逃げたりしたくない。  自分の受けた傷を、相手を傷つけた事を、後悔だけで終わらせたくはないから―――。  
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