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―逃げた花嫁―
「社長、こんな経費はどこからも落とせません」
「祖父さんは承諾したぞ」
「洋至様のポケットマネーまで出して頂くおつもりですか」
春之が出て行って一ヶ月。
今日も八紘は自社ホテルにあるオフィスフロアーの執務室にて石崎に小言を食らう。
「違う。ギャラリーの部分を改装して商談スペースを設けるんだ」
「そこは株主総会でも了承済みです。そこではなく、この買い締めたような"雪春"の事を言っているのです」
苦り切った表情の石崎に八紘はフンと鼻で笑い飛ばす。
「これには殆ど金など掛かってない。経費で落ちなければ俺のポケットから出してやる」
「だったら最初っからそうしろよ」とは有能な秘書は言わない。しかし言わないだけで顔には出すのだ。
「石崎、春之の行方は掴めたか」
「話しの逸らし方が下手になりましたね」
春之を抱いた次の日の朝。八紘は目覚めと共に春之を失った事を悟った。
数人の早番スタッフしか起きていなかった時間。それまで一歩も屋敷から出なかったのに、早朝散歩に行くからと、万が一汚れては困ると理由まで付けて、春之はこれまで身に着けなかったTシャツとジーンズを屋敷の者に頼んだという。
服を受け取った春之は「有難うございました」と穏やかな笑顔で言い残し、それからどれほど時間が経っても帰っては来ない。
春之が去る時はあの冬の孤独な子兎も一緒だと思っていたのに、八紘の部屋には未だ変わりなくあの絵が掛けられている。
あの夜、二人の熱を受け止めたベッドのサイドボードの上に残された一通の手紙には、優しい曲線の几帳面な文字が並んでいた。
――愛おしんでくださるお心に、存在の全てが救われた思いが致します。
貴方の元に、この子が居られて良かった。
貴方に拾われて良かった。
どうか奥様になられる方とお幸せに――。
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