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「初めから春之の正体を知っていたのか」
「会った事はなかったよ。だから性別も年齢も全く知らなかった」
「知らなかった」という言葉は、“今は知っている”と同意語だ。
二口目を煽り、部屋を囲む襖絵に目を遣った洋至は「仕様のない子だ」と苦笑する。
「だから、わしの所に来いと言ったのに」
それは恰も孫を見遣る好々爺の態で、優しい苦笑だった。
「その絵は雪春の最後の絵だ。丁度この料亭が出来て半年後の作品だな。それ以降この四年ほど新しい作品は出ていない」
不味そうに酒を呑む洋至など見た事はなかったが、おそらく八紘も同じ顔になっているだろう。
「雪春を買い集め始めて数年後、今から五年ほど前のある日、本人を名乗る丁寧な手紙が届いた」
懐かしい苦味に洋至は顔を顰めながら、その時を語り出す。
贔屓にしている洋至に対する感謝が丁寧に綴られ、何かに役立てることがあればと桜に積もる雪の掛け軸が添えられていた。
弓束の執拗な擦り寄りに辟易しながらも、心引かれる優しい光に満ち溢れた雪春の絵を買い求めていた洋至には、その心遣いだけで弓束と雪春の絵の扱いに対する思いが全く違うのだと知れた。
金の生るモノと、優しい心の宿る物。
すぐさま洋至は画廊に連絡を取り、当時進行中だったこの料亭のコンセプトを雪春の絵にしたいと打診した。しかしそれは素気無く断られた。
弓束との交渉では埒が明かず雪春本人を出せと迫ったが、それさえも弓束は交渉材料として会いたいなら金をと言ったらしい。
「画廊に何通も手紙を出した。雪春本人の意思を聞きたかったからだ」
そうしてようやく雪春から返事がきた。
「こちらが何通も出していた事は知らなかったのだろう。わしからの返事が貰えるなど思ってもみなかったと、まして仕事の依頼をしてもらえるなど考えてもみなかったと、溢れんばかりの喜色に満ちた手紙だった」
“喜んで承ります”そう返事が来たきり、交渉相手は再び弓束に移ってしまう。
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