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9
転ぶから、と言っていたのは自分のくせに、光太郎はろくに辺りも見ない様子で境内を抜け、さっき上がってきた階段を降りていく。後を追った流果は、足を滑らせた。
転がり落ちる――と思ったとき、間抜けな体を支えたのは、他でもない光太郎だ。
こんなときでも人を放っておけない性分なんて、本当に間抜けだ。まるで流果がそう思っているのを見透かしたように、光太郎はそっぽを向いて再び階段を降り始める。それでも一瞬の間があったのは、流果がちゃんと立つのを確認したからなのだろう。
階段を降りきると、呟きがぽつぽつと落ちた。
「……葵は気が強い仔猫みたいだった」
初めて会ったのは、母親が葵を連れて近所に挨拶に回ってきた七歳のときだったという。
「お母さんの足にぎゅっとしがみついて、大人はみんなそれを可愛いって言ってたけど、俺にはそれが怒ってるし、緊張してるし、お母さんに変なこと言う奴がいたらぶん殴る、っていう顔だって、ちゃんとわかった。……きっと、その瞬間からもう、好きだった」
昔語りを聞きながら流果は、初めてここへやって来た日、光太郎の家に向かって石を投げた葵の顔を思い出していた。涙に濡れた瞳の光の強さを。
「こんな田舎だから、未だに、離婚して都会から戻ったっていうと、いろいろ言う人もいて……そういうの、なんで子供は気がついてないと大人は思うんだろう」
闇を揺らす諦めを孕んだ苦笑。初めて触れる光太郎のそんな一面に、胸がざわつく。
「葵は大人に怒ってたんだと思う。俺も、両親がほとんど家にいなくて、父親なんか別に家もあって……そういうのにもう気がついてたけど、大人の世界のことには触れちゃいけないと思ってたから、あんなふうにちゃんと大人に対して怒ったりできる葵が眩しかった」
それからふたりはいくつもの夏を重ねた。柘榴の蕾を拾って、実を分け合って、幼い額を寄せ合って、蛍をそっとのぞき込んで。
「――でも、今年の春くらいからかな。来年はもうこうしていられないんだなって……お互いにそう思ってるのがわかるときがあって、でもそれを口にするのもお互い避けてて」
そうこうするうちに、言葉だけでなく会うことも避けるようになっていった。一緒にいられる最後の夏なのに。
光太郎の家の柘榴に石を投げつけたとき、葵は泣いていた。そして怒っていた。
おそらく、光太郎が最初に会った日と同じように、この田舎に。光太郎に。 転校生がいれば面倒を見、家政婦の作る弁当を文句を言わずに残さず食べる。進学先も生れたときから決まっていて、それを微笑って受け容れる。葵の母親が、おびえながら、へりくだりながら挨拶して回らなければいけなかったように、光太郎に周囲の望む生き方を強いる大人に。
そしてなにもできない自分に。
「……あの子も、子供の頃から葵のこと好きだったから」
お似合いだ。と、光太郎が自分に言い聞かすように呟くのが癇にさわった。
出会ったときからずっと、俺の中に、あいつを見ていたくせに。
いつの間にか光太郎の家の前までたどり着いていた。門灯以外は人の気配もない大きな邸に「じゃあ」とだけ言って去ろうとする光太郎の浴衣の襟元を、流果は、牙を出すのも忘れてひっ掴んでいた。
噛みつくように唇を重ね、舌をねじ入れる。
「……さ、えき……っ!? なに――」
腕力では光太郎のほうがはるかに勝る。引きはがされ、戸惑いと共に訊ねる声に、流果は告げた。
「俺を、あいつの名前で呼べばいい」
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