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2
目覚めてまず感じたのは、清潔ない草の匂いだ。
まぶたをそっと持ち上げて、注意深く辺りを観察する。板目の天井。飾り戸棚に生けられた花。室内に満ちる光が柔らかいのは、障子を通しているからだ。一部は《すど》簾戸になっている。
身を寄せている祖父母設定の家ではここまでしない――寝返りを打つと、正面に、眠る少年の顔があって流果はかすかに息を呑んだ。
葵よりも男臭い、それでいて上品にすっと通った鼻筋。伏せられたまぶたは、上生菓子のように柔らかそうだ。流果の布団に沿うように寝ている体は大きくて、もう青年の入り口に差し掛かっていそうなのに。
吸血かSEXをする相手の性別や年齢は問われないから、当然学校で調達するのが手っ取り早く、めぼしい輩はチェック済み。
これは隣のクラスの日下部光太郎、容姿体型共に整っていて、ひときわ目立つ生徒だ。
光太郎という名前そのままに、彼のいる場所だけ特別な光が当たっているかのように。
状況から考えると、柘榴の邸はこいつの家だったということなのだろう。担ぎ込んで看病するうち、自分もうとうとしてしまったというところか。耳を澄まして気配をうかがう。広いせいか、邸の中は静まりかえっていた。
――手っ取り早くこいつを襲おう。
二十歳までに吸血かSEXをできなかった果実、不慮の事故などでできないまま死んだ果実は、魔界の最下層、淫魔になって永遠に彷徨う。だから熟すのは、早ければ早いほど優秀だとされていた。今日の今日ならまず自分が一番だ。
実は柘榴園は数年前に淫魔を出しており、四つの園の中での扱いは下から二番目だった。流果はそれが気に入らない。
――俺たちの代で汚名返上だ。
SEXでも吸血でも、両方でももちろんいいが、せっかく無防備に眠っていてくれるのだから、吸血がいいだろう。吸血された人間はこちらから再度血を与えない限り吸血鬼にはならない。数日の記憶を失うだけだ。こいつにとってもさほどの損失じゃない。
流果はまぶたを伏せた。再び開くと、瞳が金赤に染まる。伸びた牙で首筋に噛みつこうとしたとき、光太郎が身じろいだ。
「……い、」
まぶたの際から、つう、と一筋、涙がこぼれ落ちる。朝露が稲の穂の表面をすべるように。
――また、涙か。それに今、こいつ、
ためらった瞬間、光太郎がぱちっと目を開いた。
「――うっわ!!」
大きく叫んで飛び起きる。
「び、びっくりした……」
それはこっちの台詞だ。胸の内で毒づきながら、流果は注意深く牙を引っ込めた。光太郎はきまり悪げに名乗る。
「あ、ごめん、俺、様子見てるうちに一緒に寝ちゃったみたいで……転校生、だよな? 佐伯、だっけ。俺、隣のクラスの日下部。日下部光太郎」
知ってるとも。今のところ俺のカモ候補筆頭だ。
流果が黙っていると、光太郎はこっちがなにも言わないうちから「名前長くてごめんな」と苦笑した。自分の罪でもないだろうに。
「さっきはぶつかってごめん。誰かいたような気がして……どっか強く打ったりした?」
「いや。……元々、倒れそうだったから。暑くて」
「そっか。もう少し休んでけよ。佐伯さんのうちには電話でもしとくし」
当たり前のように番号を知っているんだな、と思う。さすが田舎の情報網というべきか。確か光太郎の家は代々県議会議員だという。そういう家ならなおさら、老夫婦の家に孫がやってきたという話はすぐに伝わるのだろう。
「でも、なんで日陰にも入らないであんなとこ突っ立ってたんだ?」
「……柘榴が、欲しくて」
少し考えた結果、それだけを告げる。光太郎はいかにも快活そうにあぐらをかいて、目を瞬いた。
「ざくろ??」
「庭に」
「いや、あるのはわかってるけど、そっか、都会から来たら珍しいか。――割れてるの、あった?」
「――」
そうか。実がなっているからといって、食べ頃があるとは限らない。
さっきこいつが涙をこぼしたくらいで怯まずに、さっさと襲ってしまえばよかった。
もらすため息が深くなったのは「また相手を探すのが面倒だ」という意味だったのだが、どう受け止めたのか、光太郎は眉根を寄せると「ちょっと待ってて」とどこかへ消えた。
しばらくして戻ったとき、手にした盆の上にはグラスが乗っていた。
「去年ジャムにして、封切ってないのが一個だけあったから、お手伝いさんが炭酸水で割ってくれた」
飲めよ、と差し出されたグラスを受け取って、流果は口をつけた。甘みと酸味が体の隅々まで行き渡るようで、喉を鳴らして一息に飲み干してしまった。ぷはっと息をつくと、光太郎が呆気にとられたように目を瞬いている。
「えーっと、俺のも飲む?」
返事もせずに受け取って、同じように飲み干すと、光太郎はおかしそうに笑った。
「おまえも見かけによらず豪快だなー」
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