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8
結局襲うタイミングを逃したまま階段をのぼり切り、再びのお参りまでしてしまった。
「屋台は山の反対側の階段降りたほうに出てるんだ。そこは明るいから、そっちまで行こう」
光太郎の言葉通り、灯篭は境内の脇を通って奥へと続いていた。境内にたどり着いたとき何組かいた先客は、先にいったり来た道を戻ったりで、もう気配はない。
――今度こそ決める。
ひそかに気合を入れて光太郎の背を負う。再び牙を出そうとしたとき、ふわ、と薄緑の光が鼻先を掠めた。
「――」
流果が息を呑んだ気配に気がついたのだろう。光太郎は振り返ると「ああ」と微かに笑みをこぼした。
「蛍だよ。どこから来たんだろ。もう時期はとっくに終わってるのに……ときどきいるんだよな、ひとりだけ間違えちゃう奴が」
まるで友だちにでも接するような口ぶりで言い、流果には「初めて?」と訊ねる。
流果は頷いた。晴れて吸血鬼になるば必要に応じて蜂や蝶を使役できるようにもなるが、こんなのは魔界にはいなかったと思う。
光太郎は草の葉の上で点滅する光に近づくと、そっとてのひらですくいあげた。
流果に寄り添うようにして、手指の籠を細く開く。
光太郎の手の中で光る蛍は――
「ただの虫だな」
自然界にはちょっとない、黄緑に光るものだから、さぞや優美な姿かと思いきや、そこにいたのはなんだか冴えない造形の虫だった。小さくずんぐりしている。蝶のような華麗さはかけらもない。
「本体はいただけないな。光は綺麗なのに」
元来吸血鬼は美しいものが好きなのだ。思わず出てしまった本音に、光太郎はふき出した。
「あいつと同じこと言う」
光太郎は「ごめんな」と蛍に囁きかけながら、てのひらをほどく。黄緑色の軌跡を追う眼差しはやさしい。
「初めて蛍を見たとき、あいつ『凄い!』って大興奮して。じゃあって捕まえてやったら、気持ち悪い虫だって泣いちゃって――」
「今日!」
気づけば、柔らかい笑みのにじむ言葉を、さえぎっていた。
「葵を誘えば良かったんじゃないか」
「――佐伯?」
光太郎の声が怪訝そうに訊ねる。
「本当は葵を誘いたかったのに、なぜ俺を誘う?」
どうして俺に柘榴を届ける名目で毎日やって来る。来たって葵は仏頂面をほどかないのに。そんな顔でもひと目会いたい? なぜ人間はそんなまどろっこしいことをする。
わからない。
どうしてか自分がいらだっているわけも。
光太郎が「言い当てられた」という顔をするのを見たくはなく、流果は背を向けた。
「佐伯!」
掴まれた腕は熱い。
「……転ぶから」
それは望んだ言葉ではなかった。でも、じゃあどんな言葉が欲しかったのかと言われてもわからない。
わからない感情ごと光太郎の腕を乱暴に振り払ったとき、向かおうとしていた階段の下から声がした。
「――葵くん、」
争っていたことも忘れ、ふたりそろって物陰に隠れる。
階段の中ほどで、浴衣姿の女子が一段低いところに立っている葵と向き合っているのが、流果にははっきりと見えた。灯籠の明かりで、その顔は光太郎にも見えてしまっているだろう。
ぼそぼそと交わされる会話は聞こえない。少女は不意にかがみ込み――葵に口づけた。
「――」
息を呑んだのは、自分だったのか、光太郎だったのか。
葵は始め及び腰だったが、やがて、自分から彼女の腰に手を回した。抱き上げるようにしてくるりと自分のいる場所に下ろすと、今度は自分から口づけを深くする。そのまま階段の脇に彼女を追い詰めると、足下の灯籠がひとつ倒れた。
木の幹に背中を押し当てて、さらに口づけを深くする。
「帯、じゃま」
「あおい、くん――」
陶然とした少女の囁きを最後に、光太郎は無言で踵を返した。
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