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落とし主
そこは簡素で小さな部屋だった。
今は貴重になった紙のノートが幾つかあり、背を丸くした白髪の老女は深い椅子に腰かけ、遠方より訪れたロボットを出迎えた。
今までの経緯を話したARC-689は、枝のように細く震える手に、そっと落としものを返した。
「忘れようと思い、書き留めていたものです」
擦れた声は、やっとの思いで言葉を発した。
「願い通り、今は全ての記憶が霞みとなって上手く思い出すことができません。後悔ばかりが胸に刻まれている。それが……これほど苦しいこととは思いませんでした」
このシェルターに至る道中でノートを無くしたことに気がついた。
けれど引き返すことも叶わず、新しい生活の中で何れ忘れるだろうと思ったが、そうとはならなかった。
大切な物を失ったのだという穴の空いたような気持ちばかりを抱え、日々を過ごすことになったのである。
「どこで落としたのかも知れない。あの時に書き留めていたノートをもう一度目にすることができたなら、この悲しみを見つめ直すこともできるのでは……そう、思いながらも探しに行くこともできずに、歳ばかり重ねてまいりました」
震える声で呟きながら、ノートのページを開く。
丁寧に書き込まれた紙の上には、若き頃の苦悩をそのままに綴った言葉が続いている。それを乾いた指先でなぞりながら、口元に笑みを浮かべた。
「あぁ……やはり」
頷く。
「そぅ、そぅ……そうね」
涙に濡れた瞳が細められる。
「辛いことばかりだと思っていたけれど、こうして、ほんの一時でもあのひとの側で暮らすことができたのは……とても幸せだったのだわ」
ほぅ、と静かに息をつく。
そして顔を上げる姿に、ARC-689はもう一つ、立体ホログラフィを手渡した。受け取った彼女が呟く。
「ありがとう、私の落としものを届けて下さって」
白い息を吐きながら、愛おしそうに胸に抱いた。
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