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このクソみたいな世界の中で、どれほどの人が苦しみながら生きているのだろうかとたまに思う。
どれほどの人が笑って泣いて、苦しみながらも毎日を生きているのかと、不思議に思う。そもそも、僕達は感情という実に面倒くさいものを抱えて生きているせいでなんとも面倒くさい生き方しか出来ないのだから、言ってしまえば諦めてしまったほうが自分のためにはきっとなるのだろうけど、残念ながらそんなことなどは、出来ないわけで。僕達は毎日を苦しみながら生きている。
あぁ、好きなことだけしていれば、世の中もっと楽に生きることが出来るのに。そう思いながら、僕は毎日満員電車に揺られている。関東の中でも、川口市は非常に面倒くさい街だ。とてつもなく人が多いし、なによりも治安が悪い。日本人だけじゃなくて中国人も多いし、ついでに言えばクルド人もいる。べつに外人さんがいるのは構いやしないんだよ。中国人だろが日本人だろうがクルド人だろうが、マナーが悪い人間はそれなりに一定にいるのだから、今更そんなことで何かを咎めようとは思わない。人間の中で人種なんて正直あんまり関係ない。あぁ─僕は、そんな川口市という世界で生きている一人の人間だ。社会人になって1ヶ月。やりたいことができると思って入った会社がまさかのブラックで、日々どうやって逃げてやろうかと思いながら、じくじくと胃痛に苛まれて生きている。 会社に行くのが億劫になり始めたし、料理を作るのもしんどくなってきた。仕事はしんどい。先輩はウザイし、上司はパワハラまみれ。休みもろくにとれない。歩いていたら涙出てくる。そんなふうにして、辞めたい辞めたいと思いながらも、たかだか1ヶ月しか仕事をしていない人間がそんな簡単に辞められるわけないよなとどこか遠くで理解をしてしまっている自分がいた。朝の10時から夜の22時半まで、休憩は15分。あぁ、もういっそのこと、誰か僕の身体を壊してくれないかだなんて、そんなことさえ思いながら、生きている。生きてしまっている。
初めに言っておくと、この物語は僕が自殺するまでのお話とかそんな暗い話ではない。僕はもしかしたら転職するかもしれないし、体と心を壊すかもしれない。はたまた意外と仕事が上手くいくようになってむしろ社会人を楽しむようになるかも知らないし、いっそのことどこかへ逃げて、よくわからない山奥で野垂れ死にするかもしれない。これまたはたまた実家に帰ってニートになるかもしれないし、急に絵描きになるかもしれない。
こんなことを言い出したのは、べつにこれから話すお話は、僕の未来のお話ではなく、僕の現在のお話であると言いたかったからだ。そして、その中で、僕は僕の話をする上で、とても重要な人物とともに、話をしていきたいと思っている。それが─彼女、美和 沙都子という人物であった。
*
美和 沙都子は、僕の学生時代の友人である。友人であるが、同時に何回か寝たこともある。なんとも言えない関係を持った子だった。この時代にしては不思議な女の子で、黒髪をいつも緩くひとつに縛って、猫のように丸い瞳を細めて笑う子だった。特別美人というわけではなかったが、それでも、人よりも随分と愛嬌がある女の子だったと思う。特に笑顔が印象的で、彼女が笑うとぱっと花が咲くように僕の心を照らしてくれるのだった。白い肌は艶めかしく滑らかで、過去は弓道部だったらしい彼女はあまりに日に焼けていなかった。黒子の多い彼女は、それがコンプレックスだとよく僕に言っていたが、僕からしてみればそんなことなど気にならないほどに彼女は良い子だった。そう、彼女はひどくいい子だった。不思議な恋愛観を持っていたが、サバサバとしていてあっけらかんと笑う彼女が、僕は人間として好きだった。沙都子は、卒業したのちにも、就職することなく実家で暮らしていた。やりたいことをやるためだと彼女は僕に就職をしなかった理由を言った。
「私は小説家になりたいの」
彼女は僕にこう言った。
「世の中を書く人になりたい」その意味がよく分からなくて、僕は彼女に「それは新聞とか書けばいいんじゃないの」と言った。そしたら沙都子は大きく首を振って「新聞ではなく小説として文字を書きたいのよ」と言った。成程、とその時は笑って頷いたが、正直よく分からなかった。ただ、僕は彼女が書く文章が結構好きだった。沙都子は僕と知り合った時から隠れて色々な物語を書いていた。恋愛、ファンタジー、サスペンス、ホラー、歴史もの、純文学、色々なものに手を出していた。
「私は1番、ノンフィクションとフィクションを上手にマッチさせた物語が好きなの」
と、沙都子はよく言っていた。
「物語としてはフィクションだけど、現実にも起こりえそうなことが好き。人の心がよく出ている小説が好きなのよ」
リアルよりなノンフィクション。確かに、彼女はそういう物語がうまかった。それに、沙都子は、バイ・セクシャルだった。だからこそ、きっとなおさら、世界に疑問をもってそれを文字にできる人間だったのだろうと、今は思う。
時々沙都子は僕と寝たあとにこういった。
「女と男が寝るようにさ。男と男が寝て、女と女が寝ることは、どうして許されないんだろうね」
「子供が出来ないからじゃない?」
「子供が出来ることがそんなに正しいことなのかな。人間って生き物の中でも、1番生き物らしくないのに、どうしてそういうところだけは生き物らしく在ろうとするんだろう」
彼女の口癖だった。人間って、生き物らしくないよね、と彼女はいつもそう言っていた。人間は生き物らしくない。僕は正直あまりそうは思ってなかった。人間は間違いなく獣だ。獣で、生き物だ。感情のあるがままに暴走をし、自分の生に貪欲なのはどの生き物も同じだけど、より生に貪欲で無頓着なのは、人間だと僕は思っていた。本当に、おかしな生き物だ。人間という生き物は。あれほどまでに生に貪欲で無頓着な生き物を、僕は知らない。
「君は人間が好きだよね」
沙都子は僕によくそう言った。
「いっそ愛しているよね。」
きゅっと猫のように目を眇めた沙都子に、僕は煙草をふかして微笑んだ。
「好きだよ。だって、面白いから」
「なんだか、まるで神様みたいなことをいうんだね」
「沙都子、神様なんてものはいないよ。人間を愛おしく思うのは、僕もまた同じように、人間だからだよ」
僕の言葉に沙都子はやけに嬉しそうに笑った。クリームソーダの上に乗せられていた真っ赤なチェリーを取って、口にくわえて笑っていた。
沙都子と僕は、就職してからもよく会っていた。
「くたびれたね」と僕に会うや否やそう笑った沙都子に、僕は苦笑を返しただけだった。
確かに、体重は3キロ落ちていた。あまり寝ていなかったから、尚更不健康そうに見えたのだろう。けれど、沙都子はあんまり僕を心配していなかった。川口駅の前で集合して、僕達はいつものように図書館に行っ て、近くのカフェでクリームソーダとカフェオレを飲んでいた。沙都子はいつものように髪をひとつにまとめて、薄手のブラウスを着ていた。最初に会った時からあんまり変わらない。青色のメイクをした彼女はなんだかいつもよりも儚く見えた。
クリームソーダを美味しそうに飲みながら、彼女と僕は他愛もない会話をしていた。
「世界にいい人はどれほどいると思う?」
彼女はまた突拍子もなくそう尋ねた。
「割合にしたら、どれくらい?」
「5割ぐらいかな」
「けっこう多いじゃん」
笑いながらふざけてアイスを溶かして、沙都子は慌てて溢れそうになったクリームソーダを吸った。
「そんなにいるのかな、いい人は」
「沙都子はどう思うのさ」
「私はね、3割ぐらいだと思う」
ふっと笑った彼女が、窓の外に目を向けていた。そこでは、ベビーカーを押す中国人の女性が道を歩いていた。
「3割は少ないと思う?」
窓に目をやったまま沙都子は僕に聞いてきた。
「さぁどうだろう」
僕は肩をすくめる。
「多いのかもしれないし、少ないのかもしれない」
「世界に善人が溢れていたら、もっと世界は良くなってたでしょ」
「善人はいないけど、良い人はいる」
僕は言いながらカフェオレをひとくち含んだ。沙都子は珍しく驚いた顔をしていた。
「善人は、いない。完璧な善人なんてものは存在しない。人間が人間であるうちは、すくなくとも存在しない」
「珍しいね。人間に対して随分とリアリストじゃないの」
「僕はいつだってリアリストだけどね」
「そう?リアリストは、人間なんてものを愛したりしなそうだけど」
やけにおかしそうに笑った彼女に片眉をあげて抗議する。
「リアリストだからこそ言うんだよ。人間が人間であるうちは、人間は善人にはなれないんだよ」
「でも良い人はいるんでしょ?」
「良い人はいる。善人はいないけど、良い人はいる。良い人は、自分のことを犠牲にしても人を幸せにしようとする人だよ。でも、その人は自分のことは大切にしていないから、善人にはなれないんだよ」
「自分と相手を大切にして、やっとはじめて人は善人になれるってこと?」
「そういうこと。そんな人はいないだろ?」
「確かにね。優しい人は、自分には優しくない人だもんね」
優しい人は、可哀想な人だと僕は常々思っている。優しい人は、いつだって苦労ばかりしている人だ。人を思い、人のためと信じて良い人であろうとする。可哀想な人達だ。自己犠牲で救われるのは他人であって、自分ではないのだから。自分犠牲してまで、人を救おうとする行為に哀れみすら感じる。可哀想に。可哀想に。優しいゆえに、苦労をする。
「悪人はいると思う?」
「悪人はいるよ」
「善人の逆で?」
「善人とはまた違うよ」
薄く笑った僕に、沙都子はよくわからないと首を捻った。
「何が違うの?」
「悪人は多い。一定数いる。善人はいない。だから、良い人の逆が悪人だよ」
「よく分からないわね」
「小さな悪で人は悪人になれるからね。表裏一体さ、悪人は良い人にもなりうるし、良い人は悪人にもなりうる。人を殺した人が、世界で悪人と叫ばれるとき、その人を思う家族はその人を良い人と呼ぶのさ。完璧なる善人はいないけど、悪人はいるよ。けれど、多分、ずっとずっと少ない。人はもしかしたら、善よりも悪の方が近いのかもしれないね」
笑った僕に沙都子は目を回した。わかりやすい、降参のポーズだった。
「それじゃあ正義はどこからうまれる?」
「まともなことをいうのならば、法律から」
「まともじゃないなら?」
「その人の環境下」
「1番まともじゃん」
「正義はぶれてはいけないから、まともじゃないんだよ」
「あぁ、環境の下でだったら、人によって違いが出てしまうから?」
「そういうこと。正義とは、ある一定の決まりがあるものだから」
「難しいね」
「難しいけど、それがないと、人は倫理観とかそういうのを考えなくなるからね」
「あぁ、倫理観ね」
沙都子はどこか小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「モラル、倫理観、人は好きね。そういうのが。そんなことを叫ぶなら、ちゃんと出来るようになってから言えばいいのに」
皮肉じみた沙都子の言葉に、僕も同じように笑う。
「できたら苦労してないだろう?」
「そりゃそうだ。もっとまともな世界だったはず。あぁ、違うわ。これでも、まともな方だった」
態とらしく肩を竦めた彼女に、僕は声を上げて笑った。
「それじゃあもっと楽しい話をしよう」
「いいね。」
「愛についてとかどう?」
「うーん。僕達に愛は語れるのかな」
「失礼ね、私は語れるよ」
「それじゃあよろしく」
愛を語れるほど僕達は知らないくせにと、半笑いで彼女に投げる。しかし「愛は、世界で1番危ないもの」言いながら堪えきれずに笑った沙都子に、僕の方が笑ってしまった。
「愛は人を変える。」
「それは賛成」
「だから、最も危険なのよ」
「最も崇高なものとは言わないの?」
「愛じゃ世界を救えなかったもの」
「世界を救えるものが崇高なものなの?」
「そうよ。だって、世界になにかあったとき、救えるものがなかったらなんの意味もないじゃない」
「でも、人は愛が好きじゃないか」
「そうねぇ。愛は免罪符だから」
「免罪符?今度はどういうことだい?」
「愛を理由に、人は罪を犯すから」
沙都子はニヤリと笑った。
「愚かね。でも、愛は確かに美しいわ。美しいバラには刺がある。愛にも毒がある。でも、私はやっぱり愛が好き。人が愚かになる瞬間が好き。君も好きでしょ?」
「好きだよ。僕は嫉妬とか、そういう人間らしい醜い感情が大好きだからね」
「あなたも、結構悪趣味よね」
「沙都子には言われたくないけど」
「気づかなければ幸せだったのにね」
「そうだね。でも、気づいてしまった今は、気づかなければよかっただなんて、そんなことはいえないよ。」
「可哀想な人」
「君もだよ、沙都子。気付かせてしまったんだから、僕に」
「私は悪くないわ」
「悪くないよ、感謝してるよ。」
「それならいいの。でも、愛は美しい。これで完結ね?」
にっこりと笑った沙都子に、釣られるように僕は笑った。
僕達は、よくこういう話をした。抽象的な実のない会話は、日常生活の中で疲れて呼吸のしづらくなった僕の肺を楽にさせてくれた。人間は考える葦である。僕達は、思考を止めた瞬間死ぬのだ。僕は、死にたくなかった。生きていたかった。だから、思考をとめなかった。恐らく、沙都子という存在がいてくれたからこそ、この閉鎖的な世界の中で、僕は息が出来たのだと思う。
「この世界は生きづらいね」
あるとき、沙都子は僕に電話を掛けてきた。
「あまりにも生きづらいよ」
受話器ごしで、彼女は珍しく弱音を吐いた。
「私が生きることを世界は望んでいないんだなと、たまに思う」
「それはわかるよ」
「わかるの?」
「だって、望まれていたらこんなに生きづらくなかったんだろうなと思うもん」
生きるためにお金を稼ぎ、死にたくないから仕事をしている。将来を見据えて。それに気づく度に馬鹿らしいなと、心底思う。
「もっと楽にとかは思ってないんだ」
「そうだね、私もそう思うよ」
「もっと、人間らしく生きていたいと思うだけなんだ」
「人間らしい、か。君がそんなことを言うなんて珍しいなぁ」
「思うよ。だって僕も人間だもの」
死を望むのは阿呆らしい。けれど、たまに、ときたまに、いいなと思う。悪人が法に裁かれるのをみて、あぁ法って一応あったんだなと思う。法の下で裁かれる彼らを見て、悪人ですら裁かれるのだから、僕もいっそのこと裁いてくれれればいいのにと思う。なにに裁かれるのかは分からないけれども。裁いてもらえるほど、法を犯したこともないけれども。人間らしい悪人が、たまに愛しく思えるのだ。僕は結構やばい人間かもしれない。
「沙都子」
「なに?」
「君の書く物語で、世界を是正しておくれ」
「世界はなんにも間違えていないと思うけどね」
「でも、是正してほしいと思うんだよ」
「どう是正してほしいの?」
「そうだね。せめて、毎日笑顔で生きる人が増えるような、そんな世界になって欲しいと思うよ」
「そんなものは無理だけどね」
「無理だと承知の上でのお願いだよ」
「……そんなに是正してほしいの?」
「あぁ」
「仕方ないなぁ」
沙都子はまたきゅっと笑っていた。
「心ってどこにあるのかな」
病院に行った帰りに彼女は不意にそういった。
「心はここでしょ?」
僕は脳を指さした。
そんな僕に、沙都子は首を振る。
「違うよ、心はここだよ」
沙都子は心臓を指さした。
「心と、生は心身一体。生があるから、心がある。心臓と心は、同じだよ」
「違うよ、心は感情の動きを司る部分。だから、あるとしたら心は脳にある」
「心には温度がある。脳には温度がない。心臓が温度を作るの。だから、心はここにある」
頑なに認めない彼女に、僕は少しだけイライラする。すると、沙都子は不意に僕の手を取って自分の胸に押し付けた。
「っ」驚いて無意識に下がった僕に沙都子はとても強い力を込めて手を握った。彼女の強い瞳が僕を真っ直ぐに貫いていた。
「ほら」
沙都子はその柔い胸に僕の手をぎゅっと置いていた。
「温かいでしょ?それが心よ。人間は、感情を持って生まれてきた。感情とは心にある。だから、心臓の横に感情という名前の心を置いた。心が壊れたら、人は生に無頓着になる。だから、心とは心臓の横にあるの」
あぁ、美しいと、僕は言葉を紡ぐ沙都子に見惚れていた。
「心とは、心臓かい?」
「全く持って同じではないよ。けど、心臓という漢字に心が含まれているのだから、私はこの説をおしているのよ」
ふっと笑った沙都子は、僕の前を楽しそうに歩いていた。沙都子は感情は心に宿るとよく言った。だけど、それと同時に様々なものに感情は宿るともよく言った。私たちが気づいていないだけで、世界は感情に溢れているのだと彼女は言った。
「例えば、もしかしたら、そこにいるたんぽぽちゃんも、会話をしているのかもしれないわよね。私たちが気づいてないだけで、彼女たちは日々会話をして、笑っているのかもしれない。人間は、自分たちの理解が及ばない生き物に関して、恐れを抱くし、そもそも理解しようともしないからわからないけれども、でも、私が言うもしかしたらが、もしかしたら事実かもしれないのよ。科学的に証明されているのだというのならば、心の在処だって科学的に証明されているでしょう?人の心のことだって、なんにも、ただのひとつだってわかっていない状態で、どうして科学的に証明されているだなんて言えるのかしらねぇ。植物に心は宿らないのかしら?動物にも?そんなことはないわ。私たちが理解出来ていないだけ。私たちが見てないふりをしているだけ。耳をすませて、目を凝らして、五感を研ぎ澄ませて世界を見てみれば、わかるわ。世界はいつだって様々な音に溢れているのよ、世界が音を鳴らすということはね、様々なものの心の音がするということなのよ、きっと」
沙都子は、その後すぐに行方を眩ませた。
どこに行ったのか、僕には到底予想もつかない。ただ、ときたまに手紙が送られてくるから、生きているのだとは思っている。この情報化社会でなんともまぁアナログちっくなことをしてくる彼女を思うと、愛しく思えるが、それと同時に少しだけ呆れてしまう。彼女はいつか小説家になるだろう。けれど、それはいつの事なんだろう。彼女の文字や心や、考えを、世界はいつになったら認めるのだろう。
「ねぇ、私は、君と『死』についてだけは話をしなかったのよ。気づいていた?私は、君とだけは、その話をしたくなかったの。私たち、多分その話をしたら死をえらぶことになると思ってたの。世界に絶望をしてしまうと。ここでの絶望は、完全なる絶望のことね。限りなく死に近い悲しみに暮れると思ったの。でも、そんなことは無かったのかもしれないわね。君は強いひとだった。私は多分、相当の変わり者だったけど、君は私を受け入れてくれた。私、覚えているのよ。君が私に、世界の隙間を埋めるために物語を書き続けろと言ったこと。世界は理不尽で溢れているから、だからこそ、書き続けろと。闇を照らす光になれと、君はクサいことを言ったわね。でも、私は君のその言葉を指針にして今を生きているのよ。世界の声に耳を傾けて、それを文字にしようと思っているの。私が見たものを、世界に繋げたい。美しいだけじゃない、もっともっと深いところを。だから、あなたにはどうか見ていて欲しい。私が魂を削って文字を書く様を、あなたには見ていて欲しいの。見届けて欲しい。私の作品を、私の世界を、私の子供たちを。世界にどう繋がっていくのか。どうか、約束、守ってね。私は遠くで生きるけど、君もちゃんと遠くで生きるんだよ。君の死を、私はとめられないけど、少なくとも、私の世界を、見届けるのは、私は、君がいいと思ってるよ。
あぁ、もうすぐ朝が来る。君も同じ星を見ているのかな。私のことを忘れないでね。私の物語を、多くの人に読ませることが出来るようにしてね。ありがとう、君と会えてよかった。どうか、幸せになって」
*
美和 沙都子が、僕の人生で僕と関わった年月はたった4年だった。けれど、彼女と出会ったことで僕の人生は変わった。恐ろしいことに、僕は変わったけれども、世界は変わらなかった。だから、沙都子と出会って世界を知ったことで、僕は余計に生きづらくなってしまった。けれど、僕は一度も後悔をしたことがなかった。彼女と出会っていなかったら、僕の人生はもっと暗かったと思う。
世界は苦しみで溢れている。死にたい時に死ねない世界なんて、僕は嫌だと思っている。今のこの国じゃ到底無理だ。世界は悲しみと苦しみばかりだから。人間であるうちは、僕はこの世界で生きねばならない。もちろん、苦しいだけの世界ではなかったけれども、それでも今の僕にはこの世界は生きづらすぎるのだ。沙都子と、僕は世界の綻びに気づいてしまった人間なのだ。
弱者、金、苦しみ、仕事、平和、戦争、性別、差別、福祉、たくさんの汚いものから目を逸らして、人は生きている。弱いうちはいつだって、世界は弱い世界のままだ。僕達は、弱い人間のままだ。だから、沙都子は消えた。沙都子は自分の弱さを知っていた。知った上で消えたのだ。
けれど、沙都子は、僕の光だ。
あの子の書く物語を、君たちにはどうか読んでみて欲しいのだ。あの子は、世界を書く人間だ。だから、僕の心と魂は彼女に託す。僕はこれまでとなんら変わらないまま、生きていくから、だから代わりに、君たちには彼女の、美和 沙都子の物語をこれからも読み続けていってほしい。彼女の心を、僕達の心と言葉を。世界に蔓延る小さな理不尽の歌を。彼女は文字として書き続けてくれるだろう。世界の綻びに気づいたとき、多くの人は絶望するだろう。自分だけが世界と違うことに多くの人は悲しむだろう。でも、そんな時にこそ美和 沙都子の物語を読んでいってほしいと思う。彼女は、世界の闇を照らす文字を書く。それがいつになるかなんて、僕には到底わからないけれど、けれど、絶対に彼女は小説家になるだろう。僕はそれを、彼女のファンとして、いち読者としていつまでも見つめ続けていくだろう。僕は、彼女が羽を持ち大空へと羽ばたくときを待っている。きっと、君たちも彼女の後ろ姿を見ることができるだろう。
人の死骸を地に埋めて、その死骸を微生物が食らう。土に栄養をもたらせば、その土を更なる生き物が食べて、新たな生物を生む。そうやって、生き物の糧となる。死骸から滲み出た体液が空気中で酸素や二酸化炭素やらの空気になり、それを多くの人が吸う。ひとつの命が多くの命に関わっていく。人は、命から生命をうける。こうやって命は繋がり、巡っていく。その昔、そういった繋がりを「命」と僕が呼んだとき、沙都子はなぜかやけに嬉しそうな顔をした。僕が死ねば、その死骸を微生物がく喰らい、生き物が生き物を食べて、空気になり、世界に循環してはじめて、僕は世界に受け入れらるのかもしれない。命の巡りがはじまって、はじめて僕は人間になれるのかもしれない。
僕の物語はこれで終わりだ。徒然なるままに書き記してきたこの物語、果たして意味があるのと問われれば正直よくわからないけれど、僕は美和 沙都子という存在について話が出来たことに意味を感じている。彼女と僕の感じた世界について話をしたかったのだ。世界の綻び、抽象的な問い。人間が人間であるが故に日々感じる疑問について。あなたは辛くはないか。生きているのがしんどくないか。世界に疑問を持ったことはないか。どうしてもっと、幸せに、楽に、人間らしく生きられないのかと疑問を持ったことはないか。僕は、ある。沙都子もあった。あなたの疑問は決しておかしなものではない。世界に疑問を持つことは当たり前のことなのだ。どうしてこんなに苦しいのだろう。私は頑張っていないのではないか。そう思う度に、僕は何度だって否定をする。あなたは間違えてなどいない。あなたはおかしくなんてない。世界に見える微かなヒビを、あなたは見てしまっただけなのだ。絶望をしても構わない。けれど諦めてはならない。苦しんだっていい。けれど、苦しみだけを甘受するな。沙都子の言葉と僕の言葉を忘れないで生きて欲しい。だって、世界は変わらず回っていくのだから。良いかな、人間は、考える葦なんだよ。だから、思考をとめるな。考え続けるんだ。弱いままであるうちは、強くなろうとしなくていい。あなたの弱さを、弱いままで受け入れてくれる世界を、沙都子がきっと作ってくれるから。忘れないでほしい。僕の物語を。彼女の物語を。そして、僕達の物語を。
美和 沙都子、君の名前を永遠にしよう。物語を書き続けてくれ。君が叫ぶ世界の中で、君がおかしいと思う世界を、我々に見せてくれ。君は、僕の光。僕達の光。
彼女の名前と彼女が綴る物語の世界の中で、我々は生き続けるのだ。
我々の光の存在を、どうか、どうか、忘れないでほしい。
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