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「私たちはあなた方人間から負の感情を頂いて生きているのです
私たちからするとこれは大変美味なもので生きる糧ともなるものなのです
だから捨てるなんて絶対に考えられません! 考えられないのですが...
ただどうもあなた方人間という存在はこれを多く持っていると生きづらいようではないですか
なので私たちがその感情を頂いているということなのですよ」
なるほど、どうやら"愚痴捨池"の噂はただのプラシーボ効果というわけではないようだ。
実際に負の感情を吸い取られているのであれば愚痴が出てくることも少なくなるだろう。しかし私にそのような実感はない。
それにちょっとした恐怖を感じざるを得なかった。
「それだけ聞くと人間の魂を食べ物にしているみたいでなんだか怖いですね」
「私たちだってあなたたちの魂から直接頂いたら害が及ぶんですよ
いくら美味で生きるのに必要とはいえ多量に摂取してしまうとこちらも参ってしまうのです
そこは生き物としてどうやらみな同じなようでして
それに人間というものは多くは正というか善のというかそういう感情で構成されていますからね
こちらは私たちには害となるのでそれにはおいそれとは近づけないのです
だから私たちが必要とする分をあなたたちが投げ入れたモノから繋がっている糸を辿って少し頂戴しているというわけなのです
お互いに害を及ぼさない関係で私たちは幸せになれる
なんとも素晴らしいと思いませんか」
知らず知らずのうちに人間は共生関係を築いていたらしい。
それも人間をある意味捕食している存在である。こんな可愛い見た目ならそれもいいかと思わないこともないが。
「それで注意というのは... それに私はあなたに感情を差し出した実感がないのですが...」
「ああ 注意というのはですね
このような"食べられないもの"を投げないでくださいということですよ」
「――」
心に隙間風が吹く。その冷ややかな感覚は全身に駆け巡り私の身体を硬直させる。
恨みをこめて投げたはずだ。それなのになぜこの奇妙な生き物は"食べられない"と言うのか。
リスはこちらの様子など気にかけた様子もなく話を続ける。
「近頃こういうよく分からないものを投げ入れる人が増えてきましてね
こちらとしても食べようと思ったら硬くて食べられなかったり味がなかったりでもう困ってるんです
特にあなたのはひどい!
匂いはいいのに糸を辿ったらなんだかよく分からないものが混ざってるじゃないですか
手を出そうとして、お預けを食らった気分っていうんですか
まったく辛抱ならなくてこうして説教しに出てきてしまいました」
「――私の感情は... あなたたちの言う負の感情ではない... と?」
「いえ 美味しそうな負の感情... スープといえば分かりやすいですかね それはあるんです
でも底のほうに何か沈殿しているんですよ
正の感情ではないんです そんなものが混ざっていたら匂いで分かります
でもなんとなく食べるのが憚られるような色が混じっているんです
こんなもの食べろと言われても困ってしまうんですよまったくもう」
スーパーで食材を見つめるように、私の心を私の神経が行き届かないところまで見つめたリスの言葉に胸が詰まる。
「もっと純粋に分離できないのですか? そうすれば美味しく頂けるのです」
「――純粋に分離...」
あの時父を恨んだ。でも画家にはならなくて正解だったかもしれない。私にご飯を食えるだけの絵の才能はなかった。
あの時父を恨んだ。でもあの彼と結婚しなくて良かったかもしれない。視野が狭いまま互いに依存をしていた節があったから。
あの時父を恨んだ。でも父はなぜそんなことをしたのだろう。
人と関わるのが苦手で、人との損得の駆け引きが下手で。
もしこのリスが言うとおり人間の大部分が善で構成されているのだとしたら。
別に邪魔をしたかったわけではないのだろうか。恨まれたくてそうしたわけではないのだろうか。
負の感情が消えたわけではない。そこに確かに在り続ける。決してなくなることはない。
たた長い間沈殿していたそれの底にはリスが食べられないものが混ざっていた。
心の奥底で負の感情とともにしまい込んできたそれが混ざり合って一つになっていくのを感じた。
そのリスが食べられなかった何かを清々しいとも暖かいとも綺麗だとも思えなかった。でも確かに温度はあって深く身体に馴染む感覚があった。
「――ああ もう食べられませんね...」
リスは興味も怒りもなくした声で不意に呟いた。
リスの言葉で私の心がかき回され結果リスの食欲を満たせなくなってしまった。
私は食べられる立場でありながらこの生き物がなんとなく可哀そうに思えた。
「あなたって人の心を食べているのに人の心が分からないのね」
少しの間だが奇妙な時間を過ごした親しみをこめて微笑みながら語りかけるとリスはきょとんとした顔をしながら平坦に呟く。
「捕食者と被食者の間に理解など存在するんでしょうか」
「――それも、そうか」
一拍間が空く。リスと私の間に冷たい柔らかな風が吹く。
「...じゃあ」
そう呟いて踵を返す。「また」とは言わなかった。つま先は病院のほうへ向かっていた。
だんだんと木々の擦れる音で静けさが消え去っていく。あの妖気を感じることももうない。
父を再び目の前にして私はどうするのだろうか。きっと喋りかけはしないだろう。
言葉に頷くことも、以前のように叫び散らすこともない。
きっとその場にただいるのだろう。抱えた思いを巡らせながら薄れゆく父の影を見つめるのだろう。
左手に再び付けた腕時計は浸水による故障で動かない。煌びやかな見た目もやがて錆びてゆきもう時を刻むことはないだろう。
けれど私の時間はゆっくり、でも確かに動き出しているような気がした。
落として拾われて別のモノになったそれを見ながら私は"愚痴捨池"を後にした。
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